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『潰れかけ喫茶店ごと異世界転移したので、黒猫と静かに営業していたら最強の休憩所になっていました』  作者: CASCADE


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第五十九話 いつもの朝




朝の光が、東の窓から黒猫亭の床に白い格子模様を描いていた。

朔夜はカウンターの奥で、静かにお湯を沸かしている。

まだ開店前の時間。

静寂に包まれた店内に、湯気の立つ音だけがかすかに響いていた。


「にゃ」


ふいに、足元で小さな声がした。

見下ろすと、クロノが金色の目を輝かせてこちらを見上げている。

朔夜は小さく息を吐き、カウンターの下から

猫用の水皿を取り出して、新しい水に取り替えた。


「はい」

「にゃあ」


クロノは満足そうに喉を鳴らし、水を飲み始める。

その小さな背中を見ながら、朔夜はカウンターに手をついた。


──異世界に来てから、どれくらいの朝を迎えただろうか。


最初は、この見知らぬ街で店を続けていけるのか、

ほんの少しの不安があった。

けれど今では、仕込みの手順も、コーヒーを淹れる温度も、

すっかりこの世界の空気に馴染んでいる。





カラン。

開店の看板を出すと同時に、軽やかな鈴の音が響いた。


「おはよう、サクヤ」


入ってきたのは、商人のレインだった。

まだ朝も早いというのに、その手にはすでに

分厚い革の帳簿が抱えられている。


「いらっしゃいませ。朝早いですね」

「ああ、今日から大きな隊商が街に入るんだ。

その前に、頭をすっきりさせておきたくてね」


レインはいつもの窓際の席ではなく、

少しだけ考えた後、カウンター席へと腰を下ろした。


「いつもの、ブレンドをお願いできるかい?」

「かしこまりました」


朔夜は手際よく豆を挽き、お湯を落とし始める。

立ち上る深い香りが、朝の少しひんやりとした店内の空気を

優しく塗り替えていく。

レインはその香りを胸いっぱいに吸い込み、

深く、長くため息を吐いた。


「相変わらず、この匂いを嗅ぐだけで

半分くらい仕事が終わったような気分になるよ」

「それは少し大げさですね」

「はは、そうかもしれない。でも、それくらい救われているんだ」


コト、と目の前に黒いコーヒーカップが置かれる。

レインは両手でそれを包み込み、温かさを確かめるようにして

一口、静かに口に含んだ。





苦味の奥にある、ほんのりとした甘み。

喉を通るたびに、朝の強張っていた身体が、

ゆっくりと弛緩していくのが分かった。


「……よし」


レインは小さく呟き、帳簿を開く。

その隣に、いつの間にかクロノが音もなく飛び乗っていた。

レインの邪魔をしないように、帳簿の少し離れた場所で

ちょこんと前足を揃えて座る。


「やあ、クロノ。今日も賢いね」


レインが片手でそっと頭を撫でると、

クロノは一度だけ、短く目を細めた。


「にゃ」


静かなペン先が動く音。

コーヒーの湯気が揺れる。

朔夜は黙ってグラスを磨きながら、

ただ、いつもと変わらないその時間を静かに見守っていた。


特別なことは、何一つ起きない。

けれど、この「いつもの朝」があるからこそ、

人々はまた、それぞれの忙しい一日へと踏み出していける。


レインはカップを綺麗に空にすると、

すっきりとした笑顔で立ち上がった。


「ありがとう、良い朝になったよ」

「いってらっしゃいませ」


レインが店を出ていく。

扉が閉まり、再び訪れる優しい静寂。

朔夜は空になったカップを片付けながら、

窓の外の、少しずつ賑やかになっていく街を見つめた。


黒猫亭の、新しい一日が今日も始まっていく。

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