第五十九話 いつもの朝
朝の光が、東の窓から黒猫亭の床に白い格子模様を描いていた。
朔夜はカウンターの奥で、静かにお湯を沸かしている。
まだ開店前の時間。
静寂に包まれた店内に、湯気の立つ音だけがかすかに響いていた。
「にゃ」
ふいに、足元で小さな声がした。
見下ろすと、クロノが金色の目を輝かせてこちらを見上げている。
朔夜は小さく息を吐き、カウンターの下から
猫用の水皿を取り出して、新しい水に取り替えた。
「はい」
「にゃあ」
クロノは満足そうに喉を鳴らし、水を飲み始める。
その小さな背中を見ながら、朔夜はカウンターに手をついた。
──異世界に来てから、どれくらいの朝を迎えただろうか。
最初は、この見知らぬ街で店を続けていけるのか、
ほんの少しの不安があった。
けれど今では、仕込みの手順も、コーヒーを淹れる温度も、
すっかりこの世界の空気に馴染んでいる。
◆
カラン。
開店の看板を出すと同時に、軽やかな鈴の音が響いた。
「おはよう、サクヤ」
入ってきたのは、商人のレインだった。
まだ朝も早いというのに、その手にはすでに
分厚い革の帳簿が抱えられている。
「いらっしゃいませ。朝早いですね」
「ああ、今日から大きな隊商が街に入るんだ。
その前に、頭をすっきりさせておきたくてね」
レインはいつもの窓際の席ではなく、
少しだけ考えた後、カウンター席へと腰を下ろした。
「いつもの、ブレンドをお願いできるかい?」
「かしこまりました」
朔夜は手際よく豆を挽き、お湯を落とし始める。
立ち上る深い香りが、朝の少しひんやりとした店内の空気を
優しく塗り替えていく。
レインはその香りを胸いっぱいに吸い込み、
深く、長くため息を吐いた。
「相変わらず、この匂いを嗅ぐだけで
半分くらい仕事が終わったような気分になるよ」
「それは少し大げさですね」
「はは、そうかもしれない。でも、それくらい救われているんだ」
コト、と目の前に黒いコーヒーカップが置かれる。
レインは両手でそれを包み込み、温かさを確かめるようにして
一口、静かに口に含んだ。
◆
苦味の奥にある、ほんのりとした甘み。
喉を通るたびに、朝の強張っていた身体が、
ゆっくりと弛緩していくのが分かった。
「……よし」
レインは小さく呟き、帳簿を開く。
その隣に、いつの間にかクロノが音もなく飛び乗っていた。
レインの邪魔をしないように、帳簿の少し離れた場所で
ちょこんと前足を揃えて座る。
「やあ、クロノ。今日も賢いね」
レインが片手でそっと頭を撫でると、
クロノは一度だけ、短く目を細めた。
「にゃ」
静かなペン先が動く音。
コーヒーの湯気が揺れる。
朔夜は黙ってグラスを磨きながら、
ただ、いつもと変わらないその時間を静かに見守っていた。
特別なことは、何一つ起きない。
けれど、この「いつもの朝」があるからこそ、
人々はまた、それぞれの忙しい一日へと踏み出していける。
レインはカップを綺麗に空にすると、
すっきりとした笑顔で立ち上がった。
「ありがとう、良い朝になったよ」
「いってらっしゃいませ」
レインが店を出ていく。
扉が閉まり、再び訪れる優しい静寂。
朔夜は空になったカップを片付けながら、
窓の外の、少しずつ賑やかになっていく街を見つめた。
黒猫亭の、新しい一日が今日も始まっていく。




