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『潰れかけ喫茶店ごと異世界転移したので、黒猫と静かに営業していたら最強の休憩所になっていました』  作者: CASCADE


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第五十八話 薬師の約束



午前中の光が,黒猫亭の床に静かに差し込んでいた。

朔夜はカウンターの中で,丁寧に焙煎された豆を仕分けている。

昨日,小さな常連であるルカが頼んだ「ココア」の甘い名残が,店の隅にほんの少しだけ残っているような気がした。


「にゃ」


クロノはカウンターの上で,丸くなりながら片耳だけを動かした。

朝の澄んだ空気を楽しむように,ゆっくりと尻尾が床を叩く。



カラン。

昼前,静かに鈴が鳴る。

入ってきたのは,ガルドだった。

いつも通りの足取りでカウンターの定位置へ座る。


「いらっしゃいませ」

「おう。いつもの頼む」


朔夜はすぐに豆を挽き始めた。

しゃり,と乾いた音が店内に響き,香ばしい薫りが立ち上る。

ガルドはふと,カウンターの隅に置かれたメニューの木札を見た。


「そういや,市場でちょっと面白い噂を聞いたぞ」

「噂ですか」

「ああ。小さな子供が,母親と一緒にこの店で『特別なココア』を飲んだって,自慢げに話しててな。大人の店にお母さんと行けたのが,よほど嬉しかったらしい」


朔夜は手を止めずに,小さく頷いた。

「昨日のルカくんですね」

「ルカって言うのか。お前,本当に客の年齢を選ばない店になってきたな」


ガルドが面白そうに笑う。

朔夜は「普通の喫茶店ですから」と静かにコーヒーを差し出した。

ガルドがそれを口にした,その時だった。


カラン。

再び,穏やかに鈴が鳴る。


入ってきたのは,落ち着いた雰囲気の女性だった。

腰に下げた革袋から,かすかに乾いた草の匂いが漂う。

薬師のセレスだった。


「いらっしゃいませ」

「こんにちは」


セレスは店内を見回し,ガルドの姿に少しだけ目を留めた。

ガルドもまた,カップを持ったままセレスを見る。


「……お,薬師のセレスか。珍しいな,こんなところで会うとは」

「ガルド? あなたこそ,こういう静かな店にいるなんて意外ね」


お互い,街で顔を合わせる程度の面識はあるらしい。

セレスは少し笑いながら,ガルドから二つ空けたカウンター席へと腰を下ろした。



朔夜がセレスの前に進み,声をかける。


「ご注文は?」


セレスはカウンター越しに朔夜を見て,それから悪戯っぽく微笑んだ。


「今日は『お客』として来たわ。だから,何か甘くて,前言ったみたいに肩の力が抜けるようなものをちょうだい」

「……かしこまりました」


以前の来店での約束を,本当に果たしに来てくれたらしい。

朔夜は少しだけ考えた。

彼女は薬師として,いつも頭を悩ませ,他人の身体を気遣っている。

今の彼女に必要なのは,適度な糖分と,張り詰めた神経を緩めるための温かさ。


「カフェオレと,ケーキはいかがですか?」

「ええ,お任せするわ」


朔夜は温めたミルクを用意し,じっくりと深煎りのコーヒーを抽出していく。

二つの液体が混ざり合い,まろやかで優しい香りがカウンターを包み込んだ。

その間に,クロノが音もなく立ち上がった。

ゆっくりと歩き,セレスのすぐ隣の椅子の上へと飛び乗る。


「あら」


セレスが目を細めた。

クロノはセレスの顔をじっと見つめた後,その場に香箱座りで丸くなった。


「この子,今日も隣に来てくれるのね」

「気分だと思いますよ」


朔夜はいつものように即答しながら,温かいカフェオレと,甘さ控えめのクリームを添えたケーキを置いた。


セレスはまず,カフェオレを一口含む。

ミルクの柔らかな甘みと,奥にあるしっかりとしたコーヒーの苦味。

それを飲み込んだ瞬間,セレスの肩が,目に見えてすとんと落ちた。


「……やっぱり,不思議ね」


セレスは小さく息を吐き,ケーキを一口切り分けて口に運ぶ。

甘さはある。だが,口の中に残らない,しつこくない甘さ。


「美味しいわ。頭の中でずっと回ってた薬草の調合比率が,どうでもよくなっちゃうくらいに」

「調合は忘れない方がいいと思いますが」


朔夜の淡々とした返事に,セレスは「ふふ,そうね」と声を上げて笑った。


ガルドがそれを見ながら,自分のコーヒーを一口すする。


「ここに来ると,みんなそんな顔になるんだよ」

「あなたも?」

「さあな。だが,居心地がいいのは確かだ」


二人のやり取りを,クロノは静かに目を閉じて聞いていた。

誰かを励ます言葉をかけるわけでもない。

ただ,そこにいるだけで,それぞれの日常の重荷が少しずつ削ぎ落とされていく。


セレスは空になったカップを見つめ,それから隣のクロノの背中を,そっと指先で撫でた。


「約束通り,ただのお客として,本当にゆっくりさせてもらったわ。ありがとう,店主さん」

「どういたしまして」


セレスはすっきりと澄んだ顔で立ち上がり,代金を置いて店を後にした。

閉まる扉の向こうで,カランと鈴が優しく響く。


ガルドが空のカップを置き,小さく息を吐いた。


「いい店だな」

「普通の喫茶店です」


朔夜がいつものように答え,クロノがそれに合わせるように「にゃ」と短く鳴いた。

黒猫亭には,カフェオレとケーキの優しい匂いが,いつまでも穏やかに漂っていた。

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