第五十八話 薬師の約束
午前中の光が,黒猫亭の床に静かに差し込んでいた。
朔夜はカウンターの中で,丁寧に焙煎された豆を仕分けている。
昨日,小さな常連であるルカが頼んだ「ココア」の甘い名残が,店の隅にほんの少しだけ残っているような気がした。
「にゃ」
クロノはカウンターの上で,丸くなりながら片耳だけを動かした。
朝の澄んだ空気を楽しむように,ゆっくりと尻尾が床を叩く。
◆
カラン。
昼前,静かに鈴が鳴る。
入ってきたのは,ガルドだった。
いつも通りの足取りでカウンターの定位置へ座る。
「いらっしゃいませ」
「おう。いつもの頼む」
朔夜はすぐに豆を挽き始めた。
しゃり,と乾いた音が店内に響き,香ばしい薫りが立ち上る。
ガルドはふと,カウンターの隅に置かれたメニューの木札を見た。
「そういや,市場でちょっと面白い噂を聞いたぞ」
「噂ですか」
「ああ。小さな子供が,母親と一緒にこの店で『特別なココア』を飲んだって,自慢げに話しててな。大人の店にお母さんと行けたのが,よほど嬉しかったらしい」
朔夜は手を止めずに,小さく頷いた。
「昨日のルカくんですね」
「ルカって言うのか。お前,本当に客の年齢を選ばない店になってきたな」
ガルドが面白そうに笑う。
朔夜は「普通の喫茶店ですから」と静かにコーヒーを差し出した。
ガルドがそれを口にした,その時だった。
カラン。
再び,穏やかに鈴が鳴る。
入ってきたのは,落ち着いた雰囲気の女性だった。
腰に下げた革袋から,かすかに乾いた草の匂いが漂う。
薬師のセレスだった。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
セレスは店内を見回し,ガルドの姿に少しだけ目を留めた。
ガルドもまた,カップを持ったままセレスを見る。
「……お,薬師のセレスか。珍しいな,こんなところで会うとは」
「ガルド? あなたこそ,こういう静かな店にいるなんて意外ね」
お互い,街で顔を合わせる程度の面識はあるらしい。
セレスは少し笑いながら,ガルドから二つ空けたカウンター席へと腰を下ろした。
◆
朔夜がセレスの前に進み,声をかける。
「ご注文は?」
セレスはカウンター越しに朔夜を見て,それから悪戯っぽく微笑んだ。
「今日は『お客』として来たわ。だから,何か甘くて,前言ったみたいに肩の力が抜けるようなものをちょうだい」
「……かしこまりました」
以前の来店での約束を,本当に果たしに来てくれたらしい。
朔夜は少しだけ考えた。
彼女は薬師として,いつも頭を悩ませ,他人の身体を気遣っている。
今の彼女に必要なのは,適度な糖分と,張り詰めた神経を緩めるための温かさ。
「カフェオレと,ケーキはいかがですか?」
「ええ,お任せするわ」
朔夜は温めたミルクを用意し,じっくりと深煎りのコーヒーを抽出していく。
二つの液体が混ざり合い,まろやかで優しい香りがカウンターを包み込んだ。
その間に,クロノが音もなく立ち上がった。
ゆっくりと歩き,セレスのすぐ隣の椅子の上へと飛び乗る。
「あら」
セレスが目を細めた。
クロノはセレスの顔をじっと見つめた後,その場に香箱座りで丸くなった。
「この子,今日も隣に来てくれるのね」
「気分だと思いますよ」
朔夜はいつものように即答しながら,温かいカフェオレと,甘さ控えめのクリームを添えたケーキを置いた。
セレスはまず,カフェオレを一口含む。
ミルクの柔らかな甘みと,奥にあるしっかりとしたコーヒーの苦味。
それを飲み込んだ瞬間,セレスの肩が,目に見えてすとんと落ちた。
「……やっぱり,不思議ね」
セレスは小さく息を吐き,ケーキを一口切り分けて口に運ぶ。
甘さはある。だが,口の中に残らない,しつこくない甘さ。
「美味しいわ。頭の中でずっと回ってた薬草の調合比率が,どうでもよくなっちゃうくらいに」
「調合は忘れない方がいいと思いますが」
朔夜の淡々とした返事に,セレスは「ふふ,そうね」と声を上げて笑った。
ガルドがそれを見ながら,自分のコーヒーを一口すする。
「ここに来ると,みんなそんな顔になるんだよ」
「あなたも?」
「さあな。だが,居心地がいいのは確かだ」
二人のやり取りを,クロノは静かに目を閉じて聞いていた。
誰かを励ます言葉をかけるわけでもない。
ただ,そこにいるだけで,それぞれの日常の重荷が少しずつ削ぎ落とされていく。
セレスは空になったカップを見つめ,それから隣のクロノの背中を,そっと指先で撫でた。
「約束通り,ただのお客として,本当にゆっくりさせてもらったわ。ありがとう,店主さん」
「どういたしまして」
セレスはすっきりと澄んだ顔で立ち上がり,代金を置いて店を後にした。
閉まる扉の向こうで,カランと鈴が優しく響く。
ガルドが空のカップを置き,小さく息を吐いた。
「いい店だな」
「普通の喫茶店です」
朔夜がいつものように答え,クロノがそれに合わせるように「にゃ」と短く鳴いた。
黒猫亭には,カフェオレとケーキの優しい匂いが,いつまでも穏やかに漂っていた。




