第五十七話 小さな常連
昼下がりの黒猫亭には、穏やかな時間が流れていた。
窓から差し込む陽射しが木の床を優しく照らし、店内にはコーヒーの香りが静かに漂っている。
朔夜は焼き菓子を並べ終えると、棚をひとつ見渡した。
「これでよし。」
小さく呟く。
窓辺ではクロノが丸くなり、気持ちよさそうに昼寝をしていた。
◆
カラン。
扉の鈴が軽やかに鳴る。
「いらっしゃいませ。」
入ってきたのは三十代くらいの女性と、七歳ほどの男の子だった。
どうやら買い物帰りらしく、女性は布袋を抱えている。
男の子は店へ入るなり目を輝かせた。
「お母さん! 猫!」
窓辺のクロノを見つけたのだ。
思わず駆け寄ろうとする。
「こら。」
母親が優しく呼び止めた。
「お店では静かにしようね。」
「あっ……うん。」
男の子は素直に頷き、母親と一緒に席へ座った。
その様子を見て、朔夜は小さく微笑む。
「ご注文はお決まりですか?」
「私はコーヒーをお願いします。」
「かしこまりました。」
続いて男の子へ目を向ける。
「ぼくは?」
男の子は少し考え、小さく首を傾げた。
「苦くないのがいい。」
朔夜も少しだけ考える。
「それでしたら、甘いココアがあります。」
「……ココア?」
初めて聞く名前らしく、不思議そうな顔をした。
「甘くて温かい飲み物です。」
「おいしい?」
「甘いものが好きなら、きっと気に入りますよ。」
男の子の表情がぱっと明るくなる。
「じゃあ、それ!」
「かしこまりました。」
朔夜は静かに準備を始める。
コーヒーの香ばしい香りと、ほんのり甘い香りが店の中へゆっくり広がっていく。
その香りにつられるように、クロノが目を覚ました。
大きく伸びをすると、親子の席へ歩いていく。
「来た!」
男の子は嬉しそうに声を弾ませた。
クロノは椅子の横まで来ると、その場へちょこんと座る。
男の子を見上げるでもなく、ただ静かに寄り添っていた。
「触ってもいい?」
男の子が朔夜へ尋ねる。
「クロノが嫌がらなければ大丈夫ですよ。」
男の子はそっと手を伸ばした。
柔らかな毛並みに触れると、思わず笑顔になる。
「ふわふわだ。」
クロノは逃げることもなく、気持ちよさそうに目を細める。
その姿を見て、母親も安心したように笑った。
「こんなに大人しい猫なんですね。」
「気まぐれですけど。」
朔夜は穏やかに答えた。
やがてコーヒーとココア、それに焼き菓子が運ばれてくる。
「お待たせしました。」
男の子は湯気の立つカップを両手で持ち、一口飲んだ。
一瞬だけ目を丸くする。
「甘い!」
もう一口。
「あったかい!」
さらにもう一口飲むと、満面の笑みを浮かべた。
「これ、おいしい!」
母親もその様子を見て笑顔になる。
「そんなに気に入った?」
「うん!」
焼き菓子を一口食べ、またココアを飲む。
そのたびに嬉しそうな顔をする息子を見て、母親はゆっくりコーヒーへ口をつけた。
優しい苦味と香りが口いっぱいに広がる。
「……美味しい。」
自然と肩の力が抜けていく。
「買い物の帰りに少し休もうと思って寄ったんですけど。」
店内を見回しながら微笑む。
「落ち着くお店ですね。」
「ありがとうございます。」
朔夜は静かに頭を下げた。
しばらくすると、男の子がクロノへ話しかける。
「また来てもいい?」
クロノは小さく鳴く。
「にゃ。」
「やった!」
その返事が嬉しかったのか、男の子は声を弾ませた。
母親も思わず笑ってしまう。
「クロノがお返事してくれたね。」
「うん!」
店内には穏やかな空気が流れていた。
やがて帰る時間になる。
「ごちそうさまでした。」
「ありがとうございました。」
男の子はクロノの前まで行くと、小さく手を振った。
「また来るね。」
クロノはゆっくりと尻尾を一度だけ揺らす。
その様子に男の子は嬉しそうに笑った。
母親に手を引かれ、親子は店を出ていく。
扉の前で男の子が振り返る。
「今度はクロノと、ココアに会いに来る!」
「お待ちしています。」
朔夜がそう答えると、親子は笑顔で帰っていった。
静けさが戻った店内。
クロノは窓辺へ戻り、外を眺める。
並んで歩く親子の背中は、とても楽しそうだった。
朔夜はその様子を見ながら、小さく笑う。
「お前にも、小さな常連ができたみたいだな。」
「にゃ。」
短い返事が返ってくる。
窓から吹き込む風がコーヒーの香りを運ぶ。
黒猫亭には今日もまた、新しい思い出がひとつ静かに増えていた。




