第五十六話 待ち合わせ
昼下がりの黒猫亭には、穏やかな時間が流れていた。
窓から入り込む風が、コーヒーの香りをゆっくりと店内へ運んでいく。
朔夜はカウンターの中で豆を挽きながら、静かな店内を見回した。
窓辺ではクロノが丸くなり、気持ちよさそうに眠っている。
◆
カラン。
扉の鈴が鳴った。
「こんにちは。」
入ってきたのは商人のレインだった。
「いらっしゃいませ。」
「いつものをお願い。」
「かしこまりました。」
レインは窓際の席へ腰を下ろすと、革の帳簿を取り出した。
何かを書き込みながら、時折ため息をつく。
やがてコーヒーが運ばれてくる。
「ありがとう。」
一口飲むと、自然と肩の力が抜けていく。
「やっぱり、この時間が一番落ち着くな。」
誰に言うでもない独り言だった。
◆
再び鈴が鳴る。
「お、今日は空いてるな。」
聞き慣れた声だった。
ガルドである。
「いらっしゃいませ。」
「いつもの頼む。」
「はい。」
ガルドは店内を見回し、レインを見つける。
「なんだ、あんたも来てたのか。」
レインが笑う。
「依頼帰りか?」
「ああ。思ったより早く終わってな。」
ガルドはレインの向かいへ腰を下ろした。
「邪魔じゃなかったか?」
「むしろ一人で帳簿ばかり見てたところだ。」
二人は軽く笑い合う。
朔夜はコーヒーを淹れながら、その様子を静かに見守っていた。
◆
しばらくすると、また扉が開く。
今度は若い女性だった。
店内を見回し、少し困ったような表情を浮かべる。
「あの……席、空いてますか?」
黒猫亭は珍しく席がほとんど埋まっていた。
空いているのはガルドとレインが座る大きめのテーブルだけ。
女性は申し訳なさそうに立ち尽くす。
するとガルドが椅子を少し引いた。
「ここなら座れるぞ。」
「えっ、でも……。」
「気にするな。広い席だ。」
レインも頷く。
「遠慮しなくて大丈夫ですよ。」
女性は少し迷ったあと、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。」
席へ座ると、どこか緊張した様子だった。
朔夜が近付く。
「ご注文は?」
「おすすめをお願いしてもいいですか?」
「苦いものは平気ですか?」
「はい。」
「では、コーヒーと焼き菓子を。」
「お願いします。」
コーヒーを待つ間、三人の間には少しだけ沈黙が流れる。
だが、不思議と居心地の悪さはなかった。
先に口を開いたのはレインだった。
「初めて来られたんですか?」
「はい。噂を聞いて……。」
「どんな噂でした?」
女性は少し照れ笑いを浮かべる。
「落ち着くお店だって。」
ガルドが思わず笑った。
「間違っちゃいない。」
その一言で、女性の表情が少し和らぐ。
やがてコーヒーと焼き菓子が運ばれてきた。
一口飲んだ女性は、小さく目を丸くする。
「……美味しい。」
その言葉にガルドが笑う。
「最初はみんなそう言う。」
「ガルドさんも?」
「ああ。」
レインもカップを持ち上げる。
「気付けば、私は帳簿を持ってここへ来るのが日課になってました。」
三人の間に自然と笑いが生まれる。
その頃、クロノが目を覚ました。
ゆっくりと歩き、三人のテーブルの近くへ。
誰の足元にも寄らず、その真ん中で丸くなる。
「可愛い……。」
女性が小さく呟く。
「この子、店の猫ですか?」
「クロノです。」
朔夜が答える。
「気まぐれですが、店番はよくしてくれています。」
クロノは返事をするように一度だけ鳴いた。
「にゃ。」
三人が思わず笑う。
店の空気がさらに柔らかくなった。
窓の外では街の人々が行き交っている。
店の中では、それぞれ違う理由で訪れた客たちが、同じ時間を過ごしていた。
待ち合わせをしたわけではない。
約束があったわけでもない。
それでも、自然と顔を合わせ、言葉を交わしている。
レインがカップを置いた。
「不思議ですね。」
「何がだ?」
ガルドが尋ねる。
「待ち合わせをしてるわけでもないのに、知ってる顔が増えていく。」
ガルドは少し考え、笑みを浮かべた。
「居心地のいい店ってのは、そういうもんだ。」
その言葉に、女性も静かに頷く。
「……また来たいです。」
朔夜は小さく微笑んだ。
「お待ちしています。」
夕方が近づき、一人、また一人と店を後にする。
静けさが戻った黒猫亭。
朔夜は空になったカップを片付けながら、ふと店内を見渡した。
以前と変わらない店。
けれど、以前とは少し違う空気が流れている。
人が訪れ、笑い、また帰っていく。
そんな何気ない一日を積み重ねながら、黒猫亭は少しずつ街の日常になり始めていた。
窓辺へ戻ったクロノは、満足そうに尻尾をひとつ揺らし、静かに目を閉じた。




