第五十五話 黒猫の隣
夕方が近づき、窓から差し込む光が少しだけ赤みを帯び始めていた。
黒猫亭の中には、いつものようにコーヒーの香りが漂っている。
朔夜はカウンターの中でカップを磨いていた。
今日は客足も落ち着いている。
窓辺ではクロノが丸くなり、静かに目を閉じていた。
◆
カラン。
扉の鈴が鳴る。
入ってきたのは若い男だった。
二十代前半くらいだろうか。
服装は普通だが、どこか元気がない。
俯き気味のまま店の中を見回し、空いている席へ腰を下ろした。
「いらっしゃいませ」
「あ……はい」
返事もどこか上の空だ。
朔夜は近づく。
「ご注文は?」
男は少し考え、それから困ったように笑った。
「……おすすめで」
「苦いものは平気ですか?」
「苦手ではないです」
「では、コーヒーと焼き菓子を。」
「お願いします」
男は小さく頷いた。
朔夜がカウンターへ戻る。
その時だった。
窓辺で寝ていたクロノが、ゆっくりと顔を上げた。
そして静かに立ち上がる。
まっすぐ男の席へ向かい、その隣で腰を下ろした。
「……え?」
男が目を瞬かせる。
クロノは見上げるでもなく、鳴くでもなく、ただ座っていた。
「猫……」
思わず呟く。
だがクロノは動かない。
「俺、猫に好かれるタイプじゃないんだけどな……」
少しだけ困ったように笑う。
それでも追い払う気にはならなかった。
しばらくして、恐る恐る手を伸ばす。
クロノの頭を撫でる。
柔らかな毛並み。
クロノは嫌がることもなく、目を細めた。
「……大人しいな」
「にゃ」
小さな返事が返ってくる。
そのやり取りに、男の口元が少しだけ緩んだ。
やがてコーヒーと焼き菓子が運ばれてくる。
「どうぞ」
「あ……ありがとうございます」
男はカップへ手を伸ばす。
一口。
熱すぎず、苦すぎない。
ゆっくりと香りが鼻へ抜けていく。
「……美味しい」
自然に言葉が漏れた。
続けて焼き菓子を一口。
甘さは控えめだった。
コーヒーによく合う。
「なんだろ……」
男はカップを見つめた。
「こういうの、久しぶりな気がします」
朔夜は何も言わない。
静かにカップを拭いている。
店の中には、ゆったりとした時間だけが流れていた。
しばらくして、男がぽつりと口を開く。
「最近、仕事で失敗ばかりしてるんです。」
独り言のような声だった。
「別に大きな失敗じゃないんですけど……。」
クロノが隣で耳を動かす。
「一回失敗すると、次も失敗するんじゃないかって考えるようになって。」
男は苦笑した。
「気付いたら、何するのも怖くなってました。」
窓の外へ目を向ける。
夕日が少しだけ傾いている。
「俺、何やってるんでしょうね。」
返事はなかった。
朔夜も何も言わない。
クロノも何も言わない。
ただ静かな時間だけが流れる。
男は小さく息を吐いた。
それからもう一度、クロノを撫でる。
「……お前、何も聞かないんだな。」
「にゃ」
「そうだよな。」
男が少し笑う。
またコーヒーを飲む。
不思議だった。
問題は何も解決していない。
明日になれば仕事もある。
失敗するかもしれない。
それでも。
頭の中でぐるぐる回っていたものが、少しだけ静かになっていた。
「……なんか。」
男がぽつりと呟く。
「少しだけ、楽になりました。」
「そうですか。」
朔夜はそれだけ答えた。
男は笑う。
「はい。」
しばらくして会計を済ませ、席を立つ。
店へ入ってきた時より、表情は少し明るかった。
扉の前で振り返る。
「ありがとうございました。」
「またお待ちしています。」
「……また来ます。」
男は小さく頭を下げ、店を出ていった。
扉が閉まり、静けさが戻る。
クロノは窓際へ戻ろうとしていた。
「お前。」
朔夜が声をかける。
クロノが振り返った。
「最近、よく客の隣にいるな。」
「にゃ。」
「……分かってやってるわけじゃないか。」
クロノは返事の代わりに、軽く尻尾を揺らした。
そして窓辺へ飛び乗り、夕焼けに染まり始めた空を眺める。
黒い毛並みが橙色の光を受け、静かに輝いていた。
朔夜は小さく息を吐く。
店の中には、まだコーヒーの香りが残っている。
クロノは満足そうに目を細めながら、静かに夕空を見上げていた。




