第五十四話 記念日のケーキ
朝の黒猫亭には、甘い香りが漂っていた。
朔夜は焼き上がった生地を前に、小さく息を吐く。
何度も試した。
焼き時間も、甘さも、その都度変えてきた。
そして今日。
ようやく納得できるものができた。
「……これなら出せそうだな」
切り分けた生地へ、甘さ控えめのクリームを添える。
見た目は派手ではない。
だが、どこか優しい雰囲気のある菓子だった。
足元ではクロノが見上げている。
「にゃ」
「お前は食べられないぞ」
クロノは返事の代わりに尻尾を揺らした。
◆
昼を過ぎ、何人かの客が帰った頃だった。
カラン。
扉の鈴が鳴る。
入ってきたのは若い男女だった。
二十代前半くらいだろうか。
二人とも少し緊張した顔をしている。
「いらっしゃいませ」
朔夜が声をかけると、男性が軽く頭を下げた。
「あの……ここが黒猫亭ですよね?」
「そうですが」
女性が店内を見回す。
「本当にあったんだ……」
思わず漏れた声だった。
男性が少し照れたように笑う。
「市場で噂を聞いたんです。」
「噂ですか」
「落ち着く店だって。飲み物も美味しいって聞いて」
朔夜は小さく頷く。
「ありがとうございます」
二人は窓際の席へ座った。
どこかそわそわしている。
何となく向かい合っているだけにも見えた。
「ご注文は?」
二人は顔を見合わせる。
そして男性が少し照れながら口を開いた。
「おすすめをお願いできますか?」
「甘いものは大丈夫ですか?」
「好きです」
今度は女性が答えた。
その表情は少しだけ柔らかい。
朔夜は少し考える。
「でしたら、新しいお菓子があります。」
「新しい?」
「今日から出そうと思っていたものです。」
二人は興味深そうに顔を見合わせた。
「じゃあ、それをお願いします」
「飲み物はコーヒーでも大丈夫ですか?」
二人は同時に頷いた。
「お願いします」
朔夜は豆を挽き始める。
静かな音。
やがてコーヒーの香りが店内へ広がっていく。
その間にクロノが立ち上がった。
ゆっくり歩き、窓際の席へ向かう。
「猫……」
女性が小さく笑った。
クロノは二人の近くへ行くと、その場で丸くなる。
「懐いてるのかな」
男性が言う。
「どうでしょう」
朔夜は湯を注ぎながら答えた。
「気分だと思います」
やがてコーヒーと、新しい菓子が運ばれてくる。
「こちらが新しいお菓子です。」
二人は皿を見る。
ふわりと甘い香りが漂っていた。
「これは?」
「ケーキです」
「……ケーキ?」
二人とも初めて聞く名前らしかった。
「焼き菓子の一つです。」
「へぇ……」
女性が少し嬉しそうな顔をする。
まず一口。
そして目を丸くした。
「美味しい……」
男性も一口食べる。
「甘いけど重くないな」
続けてコーヒーを飲む。
ケーキの甘さとよく合っていた。
「これ、すごく合いますね」
「そうなるように作りました」
朔夜が答える。
二人は顔を見合わせて笑った。
それまで少し緊張していた空気が、いつの間にかなくなっている。
静かな時間。
窓の外から聞こえる街の音。
コーヒーの香り。
甘い香り。
女性が小さく笑った。
「なんだか落ち着くね」
「うん」
男性も頷く。
そして少し照れながら言った。
「……来てよかった」
女性が目を瞬かせる。
男性は少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「今日は、その……付き合って一年の記念日だから。」
一瞬の沈黙。
それから女性がふっと笑う。
「そうだね。」
その表情は、店へ入ってきた時よりずっと柔らかかった。
クロノが小さく鳴く。
「にゃ」
二人が同時に笑う。
その空気につられるように、朔夜も少しだけ目を細めた。
やがて会計を済ませ、二人は席を立つ。
扉の前で、男性が振り返った。
「また来てもいいですか?」
「もちろんです。」
女性も笑う。
「次は別の日にも来てみたいです」
「お待ちしています」
二人は並んで店を出ていった。
扉が閉まり、静けさが戻る。
クロノが窓辺へ戻り、外を眺める。
並んで歩いていく二人の背中が見えた。
朔夜も窓の外へ目を向ける。
「……記念日に来る店、か」
「にゃ」
小さな返事が返ってくる。
黒猫亭には、コーヒーの香りと、新しく増えたケーキの甘い匂いが、静かに残っていた。




