第五十三話 雨の日の痛み
朝から空は曇っていた。
厚い雲が街の上を覆い、昼を過ぎても太陽は顔を見せない。
やがて雨が降り始めた。
屋根を叩く音は強くはない。
だが、静かな黒猫亭の中にはよく響いていた。
朔夜はカウンターを拭きながら窓の外を見る。
「降り出したか」
窓辺ではクロノが丸くなっていた。
雨の日はいつもより眠そうだ。
◆
カラン。
鈴が鳴る。
入ってきたのは大柄な男だった。
年齢は四十前後。
肩幅が広く、鍛えられた体つきをしている。
だが歩き方に少し違和感があった。
左足をわずかにかばっている。
「いらっしゃいませ」
男は軽く頷き、席へ向かった。
その途中、左足に手を当てる。
ほんの一瞬だったが、朔夜は見逃さなかった。
男は腰を下ろし、大きく息を吐く。
「雨の日は嫌だな……」
独り言のような声だった。
「何かありましたか?」
男は苦笑する。
「三年前にな」
そう言って左足を軽く叩いた。
「冒険者やってた頃の怪我だ」
それ以上は語らない。
だが、それだけで十分だった。
長く付き合っている痛みなのだろう。
「ご注文は?」
男は少し考えた。
「苦すぎるのは苦手だ」
次に窓の外を見る。
「でも甘すぎるのも違う」
少し悩んだ後、肩をすくめる。
「そんな都合のいい飲み物あるか?」
朔夜は少しだけ考えた。
そして頷く。
「あります」
「あるのか?」
「甘さ控えめのココアです」
男が首を傾げた。
「……ココア?」
「飲み物です」
「聞いたことないな」
「苦すぎず、甘すぎないものをと言われたので」
男は少し考えた後、肩をすくめる。
「分からんが、店主のおすすめなんだろ?」
「はい」
「なら、それで頼む」
朔夜は棚から材料を取り出した。
湯気が立ち上る。
甘い香り。
だがくどくない。
柔らかな香りが店の中へ広がっていく。
その間にクロノが立ち上がった。
ゆっくりと男の足元へ向かう。
「ん?」
男が目を丸くする。
クロノは左足の近くで座り込んだ。
そして動かなくなる。
「変な猫だな」
「よく言われます」
朔夜は淡々と答えた。
男は少し笑った。
やがてココアが運ばれてくる。
湯気の立つカップ。
その横には小さな焼き菓子。
「こちらは?」
「よければ一緒に」
男はまずココアを飲んだ。
口に広がる甘さ。
だが重くない。
後味もすっきりしている。
「……これはいいな」
自然と声が漏れた。
もう一口。
体の内側から温まる。
雨で冷えた体に染み込むようだった。
焼き菓子も口にする。
香ばしさと甘みがココアによく合う。
「なるほど」
男は小さく頷いた。
「確かに甘すぎない」
「お口に合ったようで」
「久しぶりだな」
男は窓の外を見た。
雨はまだ降り続いている。
「こうやってゆっくり飲み物を飲むの」
冒険者を辞めて三年。
怪我は治った。
だが痛みだけは残った。
雨の日になるたび思い出す。
動けなくなった日。
諦めた日。
失ったもの。
そんなことばかりだった。
だが今日は少し違う。
ココアを飲みながらぼんやり雨を眺める。
それだけだった。
それだけなのに、張りついていたものが少しだけ軽くなる。
「……不思議な店だな」
ぽつりと漏らす。
朔夜はカップを磨きながら答えた。
「そうですか?」
「なんていうかな」
男は言葉を探す。
「痛みが消えたわけじゃない」
左足を軽く動かす。
やはり少し痛む。
だが。
「気にならなくなった」
クロノが一度だけ鳴いた。
「にゃ」
男は思わず笑う。
「お前もそう思うか?」
クロノは返事をしない。
ただ尻尾をゆっくり揺らしていた。
店の中には雨音が響く。
ココアの香りが漂う。
男は空になったカップを見つめた。
「また来る」
短い言葉だった。
だが今度は雨の日だけではない気がした。
「お待ちしています」
朔夜が答える。
男は立ち上がった。
帰る頃には、入ってきた時より少しだけ足取りが軽く見えた。
外ではまだ雨が降っている。
それでも男は小さく笑いながら歩いていった。
クロノは窓辺へ戻り、その背中を静かに見送っていた。




