第五十一話 甘い匂いの残る店
午後の黒猫亭には、静かな甘い匂いが残っていた。
コーヒーだけではない。
最近は焼き菓子の香りも、少しずつ店に馴染み始めている。
朔夜はカウンターの中で、新しく焼いた生地を見ていた。
昨日より少しだけ焼き時間を短くしたもの。
表面は軽く色づき、中は柔らかい。
「……悪くないな」
小さく呟き、一口だけ食べる。
前より軽い。
だが、まだ少しだけ甘さが残る。
クロノはカウンターの端で尻尾を揺らしていた。
「にゃ」
「お前は食べないだろ」
返事の代わりに、クロノは欠伸をする。
カラン。
鈴が鳴る。
入ってきたのは、見覚えのある商人だった。
以前、黒猫亭の噂を広げ始めた男の一人。
今日は少し疲れた顔をしている。
「いらっしゃいませ」
朔夜が声をかけると、商人は苦笑した。
「なんだか、この店来るの久しぶりな気がするな」
「実際、少し空いてます」
「最近忙しくてな……」
商人は椅子へ腰を下ろし、深く息を吐いた。
その瞬間、クロノがゆっくり目を開ける。
そして珍しく、商人のいる方へ歩いていった。
「お?」
商人が少し驚く。
クロノは椅子の近くで座り込み、そのまま動かなくなった。
「最近、この猫よく動くな」
「気分じゃないですか」
朔夜は淡々と答える。
だが視線だけはクロノへ向いていた。
「ご注文は?」
商人は少し考える。
「今日は甘いのがいいな。疲れてる時って、なんか欲しくなる」
「飲み物は?」
「おすすめで頼む」
朔夜は少しだけ考える。
それから棚へ視線を向けた。
「では、少し甘めのものを」
湯を沸かす音が静かに響く。
甘い香り。
コーヒーの香り。
二つが混ざり、店の空気をゆっくり変えていく。
商人はその匂いだけで、小さく息を吐いた。
「……なんか落ち着くな、ここ」
朔夜は答えない。
ただ静かにカップを置く。
その横へ、新しく焼いた焼き菓子も添えた。
「また増えてるな」
「試してます」
商人は笑う。
「最近どんどん店らしくなってるじゃねぇか」
焼き菓子を一口。
それから飲み物を口にする。
数秒後、商人の肩から力が抜けた。
「……あぁ、これだな」
ぽつりと漏れた声。
クロノがそのタイミングで、小さく鳴く。
「にゃ」
商人は笑った。
「お前、絶対タイミング分かってるだろ」
クロノは知らないふりをして目を閉じる。
朔夜は小さく息を吐いた。
「多分、何も考えてません」
「そうかぁ?」
商人は焼き菓子をもう一口食べる。
「でも不思議だな。この店来ると、頭の中のゴチャゴチャが少し静かになる」
その言葉に、朔夜の手がわずかに止まる。
黒猫亭の加護。
飲み物や食べ物に宿る、小さな力。
強いものではない。
だが、確かに“何か”を和らげる。
朔夜はそれを知っている。
だが説明するつもりはなかった。
「気のせいじゃないですか」
いつもの返事。
商人は苦笑する。
「まぁ、それでもいいけどな」
その時、店の外から声が聞こえた。
「おーい、レイン! こんなとこいたのか!」
商人が振り返る。
扉の外には、荷物を抱えた別の商人が立っていた。
「お前、午後の取引もう始まってるぞ!」
「……もうそんな時間か」
レインは小さく息を吐きながら立ち上がる。
朔夜はその名前を頭の中で反復した。
レイン。
今まで“商人”だった男の名前。
レインは代金を置きながら苦笑する。
「悪い。また来る」
「お待ちしてます」
短いやり取り。
レインは店を出る前に、足元のクロノを見る。
「じゃあな、黒猫」
「にゃ」
それだけだった。
扉が閉まり、再び静けさが戻る。
窓の外では、午後の風がゆっくり街を流れていた。




