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『潰れかけ喫茶店ごと異世界転移したので、黒猫と静かに営業していたら最強の休憩所になっていました』  作者: CASCADE


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第五十話 少し眠れる店

その日の黒猫亭は、昼を過ぎても静かだった。

 窓から入る風が、コーヒーの香りをゆっくり揺らしていく。

 朔夜はカウンターの中で、焼き菓子を小さく切り分けていた。

 定休日に作った試作品。

 少しずつ形になり始めている。


「……もう少し香りが欲しいな」

 小さく呟き、砕いた木の実を見つめる。

 クロノはその横で丸くなっていた。

 だが今日は珍しく、眠っていない。

 店の入口をぼんやり見ている。

 

 カラン。

 鈴が鳴る。

 入ってきたのは、見慣れない男だった。

 年齢は三十前後。

 服は乱れてはいない。

 だが、目の下が少し暗い。

 疲れている。

 店へ入った瞬間、クロノの耳がわずかに動いた。

 朔夜はそれを見たが、何も言わなかった。


「いらっしゃいませ」


 男は店内を見回し、静かに席へ座る。


「……ここ、最近よく聞く店か」

 独り言のような声。


 朔夜はカップを準備しながら尋ねる。

「ご注文は?」

 男は少し考える。

 だが、決めきれないようだった。

「……何がいい」

 珍しい聞き方だった。

 朔夜は男を見る。

 疲労。

 張り詰め。

 頭だけが動き続けている顔。

 少しだけ考えてから答えた。


「苦いものは飲めますか?」

「嫌いじゃない」

「なら、コーヒーを」

 男は短く頷いた。

 朔夜は静かに豆を挽き始める。

 しゃり、と乾いた音が店に響く。

 クロノはゆっくり立ち上がった。

 そして珍しく、自分から客の近くへ歩いていく。

 男は少し驚いた顔をした。


「……来るのか、お前」

 クロノは鳴かない。

 ただ椅子の近くで座り込む。

 それだけだった。

 男の表情から、少しだけ力が抜ける。


「変な猫だな」

「よく言われます」

 朔夜は湯を落としながら答える。

 香りが静かに広がっていく。

 今日は少しだけ深めに煎った豆だった。

 疲れている客には、その方が合う。

 やがてカップが置かれる。

 その横へ、小さな焼き菓子。


「これは?」

「試作品です。よければ」

 男はまずコーヒーを飲んだ。

 熱い液体が喉を通る。

 苦味。

 だが、不思議と重くない。

 少し遅れて、張っていた感覚がゆるむ。

 男は小さく息を吐いた。


「……なんだこれ」

 朔夜は首を上げない。

「コーヒーです」

「いや、そうじゃなくて」

 男は苦笑する。

 その顔は、店へ入ってきた時より少し柔らかかった。

 焼き菓子を口にする。

 甘さは控えめ。

 だが、後に残る香りが苦味とよく合っていた。


「……落ち着くな」

 ぽつりと漏れた本音。


 クロノはそのタイミングで一度だけ鳴いた。

「にゃ」


 男が少し笑う。

「お前もそう思うか?」

 クロノは返事をしない。

 ただ、その場から動かなかった。

 しばらくして、男は空になったカップを見る。

 そしてぽつりと言った。


「最近、全然眠れてなかったんだが……今日は少し眠れそうだ」

 朔夜の手がわずかに止まる。

 だが、すぐに動き出す。


「それならよかったです」

 短い返事。

 それ以上は何も言わない。

 黒猫亭は薬屋ではない。

 奇跡を売る場所でもない。

 ただ少しだけ、人の張り詰めたものを緩める。

 その程度だった。

 窓の外では、午後の風が静かに街を抜けていく。

 クロノは客の足元で丸くなりながら、ゆっくり目を閉じていた。

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