第四十六話 休みの日の匂い
その日、黒猫亭の扉は朝から閉まったままだった。
看板は裏返され、窓から漏れる灯りもない。
いつもなら漂っているコーヒーの香りも、今日はまだ店の中に広がっていなかった。
静かな空間。
客の声も、カップの触れ合う音もない。
朔夜はカウンターの中で棚を見上げ、小さく息を吐いた。
「……さすがに、毎日は無理か」
ぽつりと漏れた独り言。
クロノはカウンターの上で丸くなったまま、片目だけを開ける。
「にゃ」
朔夜は軽く肩をすくめた。
黒猫亭を開いてから、まともに休んだ日はなかった。
市場へ行き、仕込みをして、店を開ける。
閉店したあとも片付けや翌日の準備がある。
嫌ではない。
だが最近は、客が来ることを前提に一日が動くようになっていた。
以前とは違う。
“店”になってきている。
だからこそ、一度くらい止める日も必要だった。
「……まあ、ちょうどいいか」
朔夜は棚から袋を取り、静かに店を出た。
◆
昼前の市場は、いつも通り賑わっていた。
呼び込みの声。
荷車の音。
果物の甘い匂い。
朔夜は人混みの中をゆっくり歩く。
今日は急ぐ必要がない。
いつもの豆や果物を買うだけではなく、“試すため”の時間がある。
白い粉を指で確かめる。
乾燥させた木の実を割る。
甘みの強い果実の香りを確かめる。
「……これなら使えるか」
小さく呟き、袋へ入れた。
以前から考えていた。
焼き菓子だけではなく、もう少し違う甘味を出せないかと。
問題は材料だった。
この世界にも似たものはある。
だが、味も香りも少しずつ違う。
だから結局、自分で試すしかない。
店用の仕入れを終えたあとも、朔夜は市場を歩き続けた。
香り。
硬さ。
焼いた時の変化。
頭の中で組み合わせていく。
その様子を見ていた店主らしき老人が笑った。
「今日はずいぶん長いな」
朔夜は軽く会釈する。
「少し試したいものがあって」
「また変わったもん作る気か?」
朔夜は否定しなかった。
老人は笑いながら、追加で木の実を袋へ入れてよこす。
「焼くなら、こっちの方が香りは出るぞ」
朔夜は少しだけ目を細めた。
「……助かります」
◆
黒猫亭へ戻る頃には、空が少し赤くなり始めていた。
店の中は静かだ。
客の声も、鈴の音もない。
その代わり、今日は別の音が響いている。
混ぜる音。
刻む音。
焼ける音。
そして、甘い匂い。
朔夜は試しに作った生地を見つめ、小さく首を傾げた。
「……少し硬いか」
切り分ける。
食べる。
甘さは悪くない。
だが重い。
飲み物と合わせるには、少し主張が強かった。
クロノが近くまで歩いてくる。
鼻先だけを少し動かした。
「お前は食べないだろ」
「にゃ」
朔夜は小さく笑う。
もう一度、生地を混ぜ直す。
今度は少し水分を増やす。
木の実も細かく砕く。
焼き時間も変える。
店を開けている時にはできない作業だった。
静かな時間。
誰にも急かされない一日。
悪くない。
二回目に焼き上がったものを切り分け、朔夜は少しだけ目を細めた。
「……こっちの方がいいな」
前より軽い。
甘さも、後に残りすぎない。
コーヒーにも合わせやすかった。
クロノは再びカウンターへ戻り、丸くなる。
店の中には、いつものコーヒーとは違う甘い香りが残っていた。
朔夜は片付けをしながら、ふと閉まった扉を見る。
休んだのは一日だけ。
だが、不思議と店が遠くなった感じはしなかった。
むしろ、少しだけ余裕ができた気がする。
「……定休日、作るか」
ぽつりと落ちた言葉は、静かな黒猫亭の中へゆっくり溶けていった。
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