第四十五話 空の行き来
その日の黒猫亭は、まだ店を開けていなかった。
朔夜は早朝から市場へ出ていた。
朝の空気はまだ冷たく、人の声もまばらだ。
並ぶ食材の中から、いつもより少しだけ“色のあるもの”を選んでいく。
果物、乾物、香りの軽い葉。
そして細い紙と紐。
飾りとして使えそうなものを、必要分だけ手に取る。
「……これでいいか」
小さく呟き、袋にまとめた。
◆
昼前。
黒猫亭の扉が開く。
中には、いつもよりわずかに違う空気があった。
カウンターの端に、細い紙飾りが控えめに下がっている。
派手さはない。
だが、確かに目に入るものだった。
「にゃ」
クロノが丸くなったまま、小さく鳴く。
朔夜は一度だけ視線を向ける。
それから豆を量り始めた。
しゃり、と乾いた音が鳴る。
いつもの準備。
だが今日は、少しだけ違う手順を通っている。
カラン。
鈴が鳴る。
最初に入ってきたのはガルドだった。
店内を一度見て、すぐに飾りへ視線が向く。
「……今日は少し違うな」
朔夜は豆を計りながら答える。
「少しだけ変えました」
その言葉に、ガルドは軽く椅子へ座る。
「こういうのは珍しいな」
朔夜は静かに作業を続ける。
湯が落ちる音。
香りが広がる。
その中でガルドが飾りを見ながら言った。
「これは何か意味があるのか?」
朔夜の手がわずかに止まる。
そして短く答える。
「自分の故郷のものです」
少し間を置いて続ける。
「七月七日は、空の上に住んでいる男女が一年に一度だけ会える日なんです」
ガルドは一度視線を上げる。
「空の上、か」
朔夜は頷く。
「たまには、こういうのもいいかと思って」
ガルドは軽く笑う。
「悪くないな、その話」
カップが置かれる。
その横に、いつもの皿。
ガルドは一口飲んでから、飾りをもう一度見た。
「こういうのがあると、店の空気が変わるな」
朔夜は豆を挽きながら、小さく言う。
「……意外といいな」
それは評価というより、ただの実感だった。
クロノが一度だけ目を開ける。
そしてまた丸くなる。
ガルドは少しだけ笑う。
「そういう反応も珍しいな」
朔夜は答えない。
ただ、作業を続ける。
その日、黒猫亭にはいつもより少しだけ
“違う時間”が流れていた。
空は変わらないままなのに、どこかだけが遠く感じられる。
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