第四十二話 見ているもの
黒猫亭の昼は、今日も変わらないようでいて、少しずつ違っていた。
人の入り方。
言葉の選び方。
それらがゆっくりと形を持ち始めている。
「……安定してきたな」
朔夜は豆を計りながら、小さく呟いた。
同じ作業。
同じ音。
だが、もう“繰り返し”ではない。
「にゃ」
いつも通りの声。
だが今日は、クロノが少しだけ違っていた。
カラン。
鈴が鳴る。
朔夜は顔を上げる。
入ってきたのは、見覚えのある商人の男だった。
以前よりも迷いがない。
まっすぐカウンターに座る。
「ここも、もう慣れてきたな」
朔夜は軽く頷く。
「そうですか」
それだけ。
男は少しだけ笑う。
「“黒猫亭”ってのも、だいぶ広まってきた」
朔夜の手がわずかに止まる。
だがすぐに戻る。
「そうなんですね」
豆を挽く音。
しゃり、と乾いた響き。
その音の中で、男はふと視線を落とす。
「……そういえば」
少しだけ声を落とす。
「この店、猫がいるんだよな」
朔夜の動きが一瞬だけ止まる。
視線がわずかに横へ向く。
クロノ。
だがクロノは動かない。
ただ、目だけを開けている。
男は続ける。
「黒猫がいる喫茶店って聞いたやつがいてな。あれも噂の一部らしい」
朔夜は短く息を吐く。
「います」
それだけ。
男は少しだけ笑った。
「店の一部みたいに語られてるぞ」
そのときだった。
クロノがゆっくりと体を起こす。
音もなくカウンターの端へ移動する。
そして、男の視線の先に座る。
ただそれだけ。
何もしていない。
だが、男は少しだけ言葉を止めた。
「……妙な猫だな」
朔夜は何も言わない。
クロノも鳴かない。
ただ、見ている。
まるで“ここで起きていることは全部知っている”と言うように。
男は軽く息を吐いた。
「まあ、こういう場所には似合ってるか」
コーヒーを一口飲む。
その横に出されたものも、いつも通りの構成。
だが今日は、少しだけ空気が違っていた。
クロノはすぐに元の場所へ戻る。
それだけで終わる。
だが、その短い動きが、妙に印象に残る。
男はぽつりと呟く。
「この店、見てるのは人だけじゃない気がするな」
朔夜の手がわずかに止まる。
だが答えない。
クロノはもう目を閉じている。
ただそこにいるだけ。
それでも、確かに“場の一部”として機能していた。
黒猫亭の中に、言葉ではない観察者が一人増えたように。
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