第四十一話 言葉の形
黒猫亭の昼は、いつも通り静かに始まっていた。
だがその静けさは、もはや“何もない時間”ではない。
人が来る前提の、わずかに張りのある空気。
「……定着、してきたな」
朔夜は豆を量りながら、小さく呟いた。
同じ動作。
同じ音。
それでも、どこかだけが違っている。
「にゃ」
クロノはカウンターの上で丸くなりながら、外の気配を見ていた。
カラン。
鈴が鳴る。
朔夜は顔を上げる。
入ってきたのは、初めて見る男だった。
迷いはないが、慣れてもいない。
視線だけが少し落ち着かない。
カウンターに座ると、短く息を吐いた。
「ここが黒猫亭で合ってるか」
朔夜は一拍だけ置く。
「はい」
それだけ。
男は少しだけ周囲を見てから続ける。
「噂で聞いた。“落ち着く店”だってな」
朔夜は豆を手に取る。
「そう言われることはあります」
短い返事。
男は少し考えるように視線を落とす。
「じゃあ、それを頼む」
朔夜の手が止まる。
「……“それ”ですか」
男は頷く。
「何が出るか分からないけど、ここならそれでいい気がする」
朔夜は小さく息を吐く。
そして静かに動き始める。
しゃり、と豆の音。
湯が落ちる。
香りが広がる。
だが今日は、朔夜は少しだけ迷っていた。
“落ち着くもの”。
それは決まった一杯ではない。
客の言葉が、その形を決める。
朔夜はカップを置く。
その横に、小さな皿を添える。
いつもの構成に、ほんの少しだけ手を加えたもの。
男は一口飲む。
そして果物を口にする。
わずかに目を細めたあと、短く息を吐いた。
「……なるほど、こういうことか」
評価ではない。
理解の声だった。
朔夜は拭き作業を続ける。
男はカップを見つめながら、少しだけ続ける。
「これ、店の名前だけじゃなくて“頼み方”で変わるやつだな」
朔夜の手が一瞬止まる。
だが、すぐに動く。
「そうかもしれません」
短い返事。
男は軽く笑う。
「面白い店だな」
その言葉に、クロノが静かに尻尾を揺らす。
“言葉が形を作る場所”として、店が少しずつ認識され始めている。
黒猫亭はまだ変わっていない。
だが、外から見える形だけが、確実に変わり始めていた。
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