第四十話 名前が生まれる瞬間
黒猫亭の昼は、変わらないようでいて、少しずつ重さを増していた。
同じ時間に同じ動作をしているのに、空気だけがわずかに違う。
「……もう、“静か”って感じでもないな」
朔夜は豆を計りながら、小さく呟いた。
それは不満ではない。
ただ、確かに変わってきているという実感だった。
「にゃ」
クロノはいつも通りカウンターの上で丸くなっている。
だが耳だけは、外の気配に向いていた。
カラン。
鈴が鳴る。
朔夜は顔を上げる。
入ってきたのは、見慣れない男だった。
商人でも冒険者でもない。
少しだけ疲れた顔をしているが、迷いはない。
カウンターに座ると、周囲を見回してから口を開いた。
「ここが……黒猫亭、でいいんだな」
朔夜の手がわずかに止まる。
“名前で呼ばれた”
それだけで、空気が少し変わる。
「はい」
短く返す。
男は軽く息を吐いた。
「やっと辿り着いた感じだ」
朔夜は豆を挽く。
しゃり、と乾いた音。
その音の中で、男は続ける。
「商人連中が言ってたんだよ。“黒猫亭ってところがある”ってな」
朔夜の動きが一瞬だけ静かになる。
だが、すぐに戻る。
「そうですか」
それだけ。
カップが置かれる。
その横に、小さな皿。
男は一口飲む。
少しだけ間を置いて、果物を口にする。
そして短く息を吐いた。
「……なるほどな。こういうことか」
それは評価というより、“理解した”という声だった。
朔夜は何も言わない。
ただ拭き作業を続ける。
男はカップを見つめながら、ぽつりと続けた。
「名前が出るってのは、こういうことなんだな」
朔夜の手がわずかに止まる。
だがすぐに動く。
「どういうことですか」
男は軽く笑う。
「説明できないまま、でも“知ってる場所”になるってことだ」
少しだけ間を置いてから、カップを置いた。
「悪くない流れだと思うぞ」
朔夜は短く頷く。
そのとき、クロノがゆっくりと目を開ける。
まるで、その言葉を確かめるように。
店の中にあるものは何も変わっていない。
それでも、“黒猫亭”という言葉だけが、外側で一人歩きを始めていた。
朔夜は扉の方へ一瞬だけ視線を向ける。
その先で、この名前がどこまで届くのかは、まだ分からない。
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