第三十九話 名前のない評判
黒猫亭の昼は、今日も静かに始まっていた。
だがその静けさは、以前のような空白ではない。
どこかで誰かが話している気配が、薄く混ざり始めている。
「……面倒なことになりそうだな」
朔夜はカップを拭きながら、小さく呟いた。
理由はない。
ただ、そういう“流れ”だけは分かるようになっていた。
「にゃ」
クロノはいつも通りカウンターの上で丸くなっている。
だが耳だけは、外へ向いていた。
◆
街の一角。
市場の少し外れ。
二人の商人が荷を整理しながら話している。
「例の店、知ってるか?」
「ああ、最近ちょっと聞くな」
一人が軽く笑う。
「落ち着くとか、変わった飲み方するとか」
もう一人が肩をすくめる。
「それだけで客が増えるなら楽なもんだがな」
「いや、それが少し違うらしい」
声が少しだけ落ちる。
「飲み物と一緒に出る“余り物”が、妙に合うとか」
その言葉に、もう一人が眉を上げる。
「余り物?」
「果物とか、軽い菓子とか……詳しくは知らんがな」
話はそこで曖昧に途切れる。
だが、“よく分からない何か”として記憶には残る。
それが、噂という形だった。
◆
黒猫亭。
昼前。
カラン。
鈴が鳴る。
朔夜は顔を上げる。
入ってきたガルドは、いつもより少しだけ軽い足取りだった。
「お前のとこ、少し外でも話題になってきてるぞ」
朔夜は豆を手に取る。
「そうなんですか」
変わらない返事。
ガルドはカウンターに座り、軽く息を吐く。
「“落ち着く店”ってな」
少しだけ間を置いて続ける。
「ただ、それ以上の説明が誰にもできてない」
朔夜の手が静かに動く。
しゃり、と豆の音が響く。
「それで十分です」
短い言葉。
ガルドは小さく笑った。
「まあ、お前らしいな」
カップが置かれる。
その横に小皿。
ガルドは一口飲み、少しだけ目を細める。
そして果物を口に運ぶ。
噛んだあと、静かに息を吐いた。
それは評価ではなく、“確認”に近い沈黙だった。
ガルドはふと視線を落とし、ぽつりと言う。
「こういうのが混ざってるのが、この店の癖だな」
朔夜は何も答えない。
ただ、作業を続ける。
会話は短い。
だがその短さが、この場所の距離感になっていた。
クロノがゆっくりと尻尾を揺らす。
店の外で交わされる曖昧な噂と、ここで積み重なる静けさが、少しずつ同じ方向を向き始めている。
朔夜はふと扉の方へ視線を向ける。
その先で何が広がっていくのかは、まだはっきりとは見えていない。
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