第三十七話 持ち帰るもの
黒猫亭の朝は、いつも通り静かだった。
だが、その静けさの中に、昨日とは違う気配が混ざっている。
朔夜は市場で買った袋をカウンターの上に置いた。
「……さて、どうするか」
小さく呟く。
それは独り言というより、確認に近かった。
店はまだ完成していない。
だからこそ、少しの変化がそのまま形になる。
「にゃ」
クロノは袋を一瞥すると、すぐに目を閉じる。
問題ないと言わんばかりの態度だった。
朔夜は果物を一つ取り出す。
市場で見た、少し色の濃い実。
手の中で転がすと、ほんのわずかに甘い香りが立つ。
「……そのまま出すわけにはいかないか」
包丁を取り出す。
迷いはない。
果肉を薄く切る。
断面から、静かに香りが広がっていく。
カップの横に、小皿を置く。
ただの果実。
朔夜はそれを見つめる。
(これでいいのか……)
自問は短い。
答えもすぐに出る。
まだ試す段階だ。
昼前。
カラン。
鈴が鳴る。
入ってきたのは、見覚えのあるガルドだった。
もう驚きはない。
むしろ当然のように扉をくぐる。
「お、今日は少し違う匂いがするな」
朔夜は軽く頷く。
「試しているところです」
それだけ。
ガルドはカウンターに座る。
視線が小皿に向く。
「それは?」
朔夜は短く答える。
「市場で買ったものです」
ガルドは少しだけ笑う。
「店ってのは、そうやって増えていくもんだな」
朔夜は豆を挽く。
しゃり、と音が鳴る。
いつもの香り。
だが今日は、その横に別の要素がある。
ガルドは一口飲み、少し間を置く。
「……やっぱり落ち着くな、ここは」
そして、果実を口にする。
わずかに目を細めた。
「……これ、同じ一杯なのに印象が変わるな」
その言葉は、評価というより“発見”だった。
朔夜は何も言わない。
ただ、静かに作業を続ける。
店の中にあるものが、少しだけ増えた。
それだけで、空気は確かに変わっていた。
クロノがゆっくりと尻尾を揺らす。
“外から持ち帰ったものが、店に馴染んだ”ことを確かめるように。
黒猫亭はまだ小さい。
だが今、確実に“店としての輪郭”を少しずつ厚くしていた。
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