第三十六話 選ぶということ
市場の空気は、まだ朝の熱を残していた。
木箱が並び、人の声が重なり、色と匂いが絶えず流れている。
黒猫亭の中では感じない種類の“雑さ”が、逆に生きているようだった。
「……思ってたより、全部違うな」
朔夜は小さく呟いた。
同じ野菜でも、並ぶ場所が違えば形も香りもわずかに変わる。
それは質の違いというより、“生きてきた場所の違い”に近かった。
朔夜は一つの木箱の前で足を止める。
少しだけ色の濃い果実。
手に取ると、指先に柔らかい重さが残る。
香りは強くないが、確かに甘さの気配がある。
「それ、うちのは少し甘いよ」
店主の男が軽く顎で示す。
朔夜は一度だけ頷いた。
「少しだけ、もらいます」
必要以上には買わない。
まだ店は小さい。
だが選ぶという行為だけは、確実に“店の形”を決めていく気がした。
袋を受け取りながら、朔夜は周囲を見渡す。
声が交差し、値段が変わり、食材が動いていく。
その流れの中で、ふと耳に引っかかる言葉があった。
「最近さ、あの辺に変な喫茶店あるらしいな」
「落ち着くとか言われてるやつだろ?」
朔夜の動きが、一瞬だけ止まる。
だが、視線は動かしたままにする。
(……もう、ここまで来てるのか)
まだ看板として確立していない。
名前も曖昧なまま。
それでも、“同じ話題”が別の口から出ている。
黒猫亭は、まだ点だ。
だが、その点が少しずつ線になりかけている。
朔夜は袋を握り直し、歩き出す。
視界の中で、人の流れが途切れなく続いていた。
その一つ一つが、いつか店に戻ってくる可能性のようにも見える。
帰り道。
市場の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。
代わりに、頭の中に残るのは“選んだもの”の感触だった。
どれも正解ではない。
けれど、間違いでもない。
それが今の黒猫亭に似ている気がした。
「……少しずつだな」
朔夜は誰にともなく呟く。
焦りはない。
ただ、確実に何かが積み上がっている感覚だけがある。
クロノの顔が少しだけ浮かぶ。
店の静けさ。
カップの音。
来る人間の変化。
その全部が、今日の市場と繋がっているように思えた。
黒猫亭はまだ小さい。
だが今、街の中で確かに“選ばれる側”へと変わり始めていた。
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