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『潰れかけ喫茶店ごと異世界転移したので、黒猫と静かに営業していたら最強の休憩所になっていました』  作者: CASCADE


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第三十五話 外へ出る理由

黒猫亭の朝は、いつもより少しだけ早く動いていた。

   まだ客の来ない時間。

   カウンターの上には、磨かれたカップが静かに並んでいる。


  「……そろそろ、行くか」

   朔夜は布巾を置いて、小さく呟いた。

   決めていたというより、流れとしてそうなるのが自然だった。

   店の中だけで完結していた時間が、少しずつ外へ伸びている。


  「にゃ」

   クロノはカウンターの上で丸くなったまま、片目だけを開ける。

   止める気配はない。

   むしろ当然のように見ていた。

     

   扉を開けると、朝の空気が一気に流れ込んできた。

   店の中とは違う、少しざらついた匂い。

   人の生活の匂い。

     朔夜は一度だけ目を細めて、外へ足を踏み出した。

     向かうのは市場。

     ガルドの言葉を思い出す。


    「この辺なら、朝市は東通り。食材なら昼前のほうがいい」


     それだけの、何気ない助言だった。

     だが朔夜にとっては十分だった。

     歩き始めると、街はすでに動いていた。

   荷を運ぶ人。

   店を開ける人。

   小さな呼び声。

     黒猫亭の静けさとはまったく違うリズム。

    (……これが、外か)

     朔夜は歩きながら、そんなことを考える。

     同じ世界のはずなのに、別の時間のように感じる。

     角を曲がると、少しずつ人の密度が増えていく。

     ざわめきが重なり、音が層になる。

     やがて視界が開けると、そこには朝市が広がっていた。


     木箱に並ぶ野菜。

   籠に入った果物。

   香りの違う乾物。

     声が飛び交い、値が交わされる。

     朔夜はゆっくりと歩く。

     視線は一つ一つの食材に落ちていく。

     店で出すものは限られている。

   だが、ここには“まだ知らない形”があった。


    「お、見ない顔だな」

     不意に声がかかる。

     振り向くと、野菜を並べている商人の男がこちらを見ていた。

     朔夜は軽く会釈する。

    「少し見て回っているだけです」

     男は笑って肩をすくめる。

    「なら好きに見ていきな。ここは慣れないと面白くない場所だ」

     朔夜は小さく頷く。

     視線を戻し、歩き出す。

     その途中、ふと耳に引っかかる言葉があった。


    「最近さ、変な店あるらしいな」

    「落ち着くとか言われてるやつ」

     誰かと誰かの雑談。

     朔夜の足が一瞬だけ止まる。

    (……もう、外に出てるのか)


     黒猫亭の名前はまだはっきりしていない。

   それでも確かに、どこかで小さく形になり始めていた。

     朔夜は視線を戻し、歩き出す。

     野菜の色。

   果物の香り。

   生活の音。

     それらすべてが、これから店に持ち帰る“外の層”だった。

     黒猫亭はまだ小さい。

     だが今、確かに街の中へと枝を伸ばし始めていた。

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