第三十二話 まだ形にならない話
黒猫亭の昼は、今日も静かだった。
だがその静けさの中に、わずかな“外の気配”が混ざり始めている。
人が来るたびに、店は少しずつ外側と繋がっていく。
「……ここも、変わっていくもんだな」
朔夜は豆を挽きながら、小さく呟いた。
音は変わらない。
しゃり、と乾いた響き。
けれど、その音を聞く人間は増えてきている。
「にゃ」
クロノはカウンターの上で丸くなったまま、目だけを細く開ける。
外ではなく、店の中とその先を同時に見ているようだった。
カラン。
鈴が鳴る。
朔夜は顔を上げる。
入ってきた客は、どこかそわそわしていた。
前の客たちのように迷いはないが、目的がはっきりしているわけでもない。
「ここってさ、なんか変わった飲み物出すって聞いたんだけど」
朔夜は一拍だけ置く。
「喫茶店です」
それだけ。
客は少し肩の力を抜く。
「まあ、そんな感じだよな」
納得したようで納得しきれていない顔。
「とりあえず、何かある?」
朔夜は豆を手に取る。
迷いはない。
ただ、少しずつ“選ばれる側”ではなく“出す側”としての感覚が馴染んできている。
しゃり、と音が鳴る。
湯を落とす。
香りが広がる。
客はその動きを見ながら、ぽつりと呟いた。
「……なんかさ、ここで出るやつ、飲むと落ち着くらしいって」
朔夜の手がわずかに止まる。
だが、すぐに動き出す。
「そうですか」
短い返事。
それ以上は広がらない。
一口飲む。
客は少しだけ目を見開く。
「……あ、これか」
理由のない納得。
朔夜は何も言わない。
ただ拭き作業に戻る。
クロノが小さく尻尾を揺らす。
それは、店の外側に“形にならない何か”が広がり始めている合図のようだった。
黒猫亭はまだ小さい。
だが、その名前はまだ誰の中でも完全には言葉になっていない。
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