第三十一話 静かな選択
黒猫亭の昼は、いつも通り静かに流れていた。
ただ、その静けさは少しずつ“人を待つ形”に変わっている。
「……今日は、落ち着いてるな」
朔夜は豆を量りながら、小さく呟いた。
音は変わらない。
しゃり、と豆が挽かれる乾いた響きだけが、店の時間を刻んでいく。
「にゃ」
クロノはカウンターの上で丸くなりながら、片目だけを開ける。
外ではなく、店の中の気配だけを見ていた。
カラン。
鈴が鳴る。
朔夜は顔を上げる。
入ってきたのは、少し疲れた様子の女性だった。
旅人というより、日常の延長から少しだけ離れてきたような雰囲気。
店内を一度見回してから、静かに息を吐く。
「ここ……落ち着くって聞いたんだけど」
朔夜は一拍置いてから答える。
「喫茶店です」
それだけ。
女性は少しだけ肩の力を抜いて、カウンターに座った。
「じゃあ……おすすめをお願いできる?」
朔夜は豆を手に取る。
迷いはない。
いつも通りの動作。
「苦味が少ないものがあります」
短く答える。
女性は小さく頷いた。
「それでお願い」
朔夜は豆を挽く。
しゃり、と乾いた音。
湯を落とすと、香りが柔らかく広がる。
カップを置く。
「どうぞ」
女性は一口飲む。
すぐに表情が少し緩む。
「……あ、これ飲みやすい」
小さな驚きと安心が混ざった声。
朔夜は何も言わない。
ただ、次に小さな皿を出す。
焼き色のついた、小さな菓子。
「こちらも」
それだけ。
女性は一つ手に取り、口に入れる。
軽く噛んでから、目を瞬かせた。
「……これ、合うね」
ぽつりと漏れた声は、素直だった。
朔夜は静かに頷く。
会話はそれ以上続かない。
だが、その沈黙はもう気まずさではなかった。
女性はカップと皿を交互に見ながら、少しだけ息を落とす。
「ここ、ほんとに変な安心感あるね」
朔夜は拭き作業を続けながら、短く返す。
「そうですか」
それだけ。
クロノが静かに尻尾を揺らす。
まるで、“また一人、この場所を覚えた”と確認するように。
黒猫亭はまだ小さい。
だが、確かに“立ち寄る場所”としての形を少しずつ持ちはじめていた。
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