第三十話 名前の無い噂
黒猫亭の昼は、今日も変わらないようで少しずつ違っていた。
同じ椅子。
同じカップ。
同じ音。
けれど、その中に混ざる“来た人の層”が変わっている。
「……不思議なもんだな」
朔夜は豆を量りながら、小さく呟いた。
店は何もしていない。
ただ、出しているだけ。
それなのに、少しずつ“選ばれる理由”が生まれている気がした。
「にゃ」
クロノはカウンターの上で丸くなりながら、外の気配を一瞬だけ見た。
すぐに興味を失ったように目を閉じる。
カラン。
鈴が鳴る。
朔夜は顔を上げる。
入ってきたのは、また違う客だった。
昨日の冒険者とも、異質な存在とも違う。
普通の服装。
ただ、どこか落ち着きなく周囲を見ている。
「ここ……最近、変な店があるって聞いて」
朔夜は一拍置く。
「喫茶店です」
それだけ。
客は少しだけ肩の力を抜いた。
「……ああ、ならいいのか」
安心したように椅子に座る。
「何か、飲めるものある?」
朔夜は豆を手に取る。
しゃり、と音が鳴る。
湯を落とす。
香りが広がる。
客はそれを見て、わずかに目を細める。
「……これが、頼んだやつか」
確認するような、短い声。
朔夜は軽く頷く。
それ以上は言わない。
一口飲む。
客は少し驚いたように目を瞬かせる。
「……思ってたより飲みやすいな」
ぽつりと漏れる言葉。
朔夜は何も返さない。
ただ、拭き作業に戻る。
そのやり取りは短い。
だが、どこか“初めて来たはずなのに知っている場所”のような空気が生まれていた。
クロノが静かに尻尾を動かす。
それは、記録ではなく“認識”に近い動きだった。
黒猫亭はまだ小さい。
だが外の世界のどこかで、ほんのわずかに“名前のない噂”が生まれ始めていた。
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