第二十八話 少しずつ馴染む場所
女が帰ったあと、黒猫亭はまた静けさが戻った。
扉の鈴はもう鳴らない。
それでも、店の中は完全には元通りになっていなかった。
さっきまで誰かが座っていた場所だけ、空気が少しだけ柔らかい。
「……ほんとに、残るんだな」
朔夜はカップを拭きながら、小さく呟いた。
見えないはずのものが、確かに“跡”として残っている。
それは汚れでも記録でもなく、ただの余韻。
「にゃ」
クロノはカウンターの上で丸くなったまま、片目だけを開ける。
外ではなく、店の中を見ている。
何かが増えたことを、確認するように。
朔夜はふと、手を止める。
静かすぎる時間。
だが、その静けさは以前のような“空白”ではない。
誰かが来たあとに残る、わずかな揺らぎがある。
(ここ、ただの喫茶店じゃなくなってきてるのかもしれないな)
そう思った瞬間、自分の考えに少しだけ苦笑する。
まだ開店して間もない。
客も数えるほど。
なのに、店だけが先に“役割”を持ち始めている気がした。
カラン。
鈴が鳴る。
朔夜は顔を上げる。
扉の前に立っていたのは、見覚えのある影だった。
冒険者の男。
「また来た」
それだけ言って、少しだけ気まずそうに視線を逸らす。
朔夜は軽く頷く。
「どうぞ」
男は前と同じ席に座る。
動きに迷いはない。
ここが“まだ来てもいい場所”だと、すでに理解しているようだった。
朔夜は豆を挽く。
しゃり、という音。
男はその音を聞いて、わずかに肩の力を抜いた。
「……やっぱり、ここは落ち着くな」
ぽつりと漏れた言葉。
朔夜は何も返さない。
ただ湯を落とす。
香りが広がる。
男はそれを見ながら、少しだけ目を細めた。
「帰ってきたって感じがするのが、不思議だな」
朔夜はカップを置く。
「どうぞ」
男は一口飲む。
そして、前よりも少しだけ早く息を吐いた。
「……ここ、いい場所だ」
今度は、迷いのない言葉だった。
朔夜は少しだけ視線を落とす。
「そうですか」
それだけ。
クロノが静かに目を細める。
まるで、“戻ってきた”ことを当然のように受け止めているように。
黒猫亭は、少しずつ「来る場所」から
「戻る場所」へと変わり始めていた。
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