第二十五話 重ならない影
その客が去ったあと、黒猫亭はしばらく静かだった。
扉は閉じたまま。
風も入らない。
ただ、空気だけがわずかに重さを変えていた。
「……変なのが増えてきたな」
朔夜は拭き終えたカップを棚に戻しながら呟く。
怖さではない。
ただ、今までの“普通の来客”とは違う方向に寄ってきている感覚だった。
「にゃ」
クロノはカウンターの上で丸くなったまま、目だけを細く開ける。
外の気配を追っているのか、それとももう興味がないのか。
どちらともつかない反応だった。
朔夜はカウンターを軽く指でなぞる。
木の表面は少しずつ変わっている。
誰かが座る。
誰かが触れる。
それだけで、見えない跡が残る。
(この店、どこに向かってるんだろうな)
最初はただの純喫茶だった。
潰れかけていた、小さな店。
それが今は、少しずつ“何かを呼び込む場所”になりつつある。
カラン。
不意に、また鈴が鳴った。
朔夜は顔を上げる。
扉の向こうに立っていたのは、さっきのような“違和感”ではない。
もっと単純で、もっと現実的な影だった。
冒険者の装備を軽く付けた、若い男。
ただし、その目は少しだけ迷っている。
「ここ……入っていい店か?」
朔夜は一拍置いてから頷く。
「喫茶店です」
男は少しだけ安心したように息を吐いた。
「なら、助かった」
そう言って、カウンターへ向かう。
その動きは、さっきの存在とは違い、ちゃんと“人間の重さ”があった。
朔夜は豆を手に取る。
同じ作業。
同じ音。
だが、さっきの余韻がまだ少しだけ残っている。
(戻ってきた、って感じか)
クロノが一度だけ尻尾を動かす。
それは、区別するような動きだった。
黒猫亭は、まだ日常の中にある。
だがその日常は、少しずつ“重なり方”を変え始めていた。
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