第二十四話 迷い込んだもの
扉の前に立っていた影は、すぐには入ってこなかった。
まるで、そこが“境界”だと理解しているかのように。
黒猫亭の中と外。
その間に、見えない線が引かれている。
「……いらっしゃいませ」
朔夜は静かに声をかけた。
その一言で、影がわずかに揺れる。
扉が開く。
入ってきたのは、これまでの誰とも違う気配だった。
人の形はしている。
だが、空気の密度が違う。
歩くたびに、音が少し遅れて届くような違和感。
「……ここは」
低い声。
確認でも質問でもない。
ただ“認識”のための言葉だった。
朔夜は一拍置いてから答える。
「喫茶店です」
それ以上でも、それ以下でもない。
その存在はゆっくりとカウンターへ向かう。
椅子に座る動きは、妙に滑らかで、現実感が薄い。
「飲み物を」
短い要求。
朔夜は豆を手に取る。
いつも通りの動作。
だが、少しだけ空気が重い。
しゃり、と豆が砕ける音。
その音に、その存在はわずかに反応した。
「……音があるのか」
小さな独り言。
朔夜は答えない。
ただ湯を落とす。
香りが広がる。
その瞬間、その存在の視線がわずかに揺れた。
「これは……」
言葉が途中で止まる。
理解ではなく、“干渉されている感覚”に近いものが走ったようだった。
朔夜はカップを置く。
「どうぞ」
沈黙。
それから、ゆっくりと一口。
長い間、動きが止まる。
「……ここは、境界の内側か?」
ようやく出た言葉は、質問というより確認だった。
朔夜は首を傾げる。
「喫茶店です」
同じ答え。
それ以上は言わない。
その存在は、もう一度だけカップを見る。
「……面白い場所だな」
そう言って、静かに立ち上がる。
そして、来たときと同じように、音も少なく扉へ向かう。
カラン。
鈴が鳴る。
去った後、空気だけが少しだけ変わっていた。
クロノが目を細める。
まるで、“次はここからだ”と告げるように。
黒猫亭は、静かに境界へ触れ始めていた。
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