第二十二話 小さな記録
黒猫亭の扉は、今日はまだ一度も鳴っていなかった。
昼の光だけが、店内をゆっくりと移動している。
さっきまで誰かがいた気配が、少しずつ薄れていく時間。
それでも、完全には消えない。
カウンターの木目には、わずかな跡が残っている。
「……こうやって増えていくのか」
朔夜は布でカップを拭きながら、小さく呟いた。
ここに来た客は、まだ数えるほどしかいない。
それでも、その一つ一つが妙に濃く残っている。
“誰も来ない店”ではなくなっていた。
「にゃ」
クロノは窓際で丸くなったまま、微かに耳を動かす。
外の音に反応しているわけではない。
ただ、この店の“内側の変化”だけを見ているようだった。
朔夜はカップを棚に戻す手を止める。
並んだ食器はまだ少ない。
それでも、空っぽではない。
その事実だけで、空間の印象は変わる。
(店って、こういうふうに出来ていくのか)
誰かが座る。
誰かが飲む。
誰かが帰る。
その繰り返しが、静かに層を作っていく。
朔夜はカウンターを軽く拭いた。
昨日座っていた場所。
そこに残っていた“温度”は、もうほとんど感じない。
代わりに、別の何かが上書きされている。
「……記録、か」
ぽつりと漏れた言葉は、独り言に近い。
黒猫亭は、まだ店として完成していない。
だが確かに、“誰かが通った場所”として積み上がっている。
「にゃ」
クロノが小さく鳴いた。
まるで、それを記録しているのは自分だと言うように。
朔夜は少しだけ目を細める。
この店はまだ小さい。
それでも、確実に“何かを受け入れ始めている場所”になっていた。
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