第二十一話 静かな合図
黒猫亭の昼は、ゆっくりと形を持ちはじめていた。
まだ客は少ない。
それでも「誰も来ない店」ではなくなっている。
その違いだけで、空気は不思議と軽くも重くも変わる。
「……今日は、どうするか」
朔夜は豆の瓶を軽く持ち上げながら呟いた。
開店してからの時間は短い。
だが、同じ“静けさ”でも種類が違うことはもう分かっていた。
何も起きない静けさと、何かが通り過ぎた静けさ。
今は後者だ。
「にゃ」
クロノはカウンターの上で丸くなりながら、片目だけを開ける。
その視線は、扉の方へ一瞬だけ向いた。
カラン。
鈴が鳴る。
朔夜は顔を上げる。
扉が開いたまま、誰かが立っていた。
鎧もない。
旅装でもない。
ただ、少し疲れた顔をした中年の男だった。
「ここ……やってるのか」
小さな確認。
朔夜は静かに頷く。
「はい、喫茶店です」
男は一瞬だけ店内を見渡し、ゆっくりと息を吐いた。
「……嗅いだことのない香りの店だな」
嫌悪ではない。
ただ、知らないものに触れたときの戸惑い。
男はカウンターに座る。
動きは重いが、乱暴ではない。
「さっきの香りのするものを頼む」
それだけだった。
朔夜は小さく頷く。
豆を挽く。
しゃり、と乾いた音が鳴る。
湯を落とす。
ゆっくりと、濃い香りが広がる。
男はそれをじっと見ている。
まるで、記憶の奥を探るように。
「……これは、いいな」
ぽつりと落ちた声に、わずかな実感が混ざる。
朔夜は何も聞き返さない。
ただカップを置くだけだった。
「どうぞ」
男は一口飲む。
長く、何も言わない。
それから、ようやく息を吐いた。
朔夜は拭き作業に戻る。
会話は続かない。
だが、それで十分だった。
クロノが小さく尻尾を揺らす。
まるで、「ここからだ」とだけ告げるように。
黒猫亭の中に、また一つだけ静かな“合図”が増えていく。
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