第二十話 最初の“常連”という形
昼を少し過ぎた黒猫亭は、静けさの中に少しだけ重みを持ちはじめていた。
ただの「何もない静けさ」ではない。
誰かが来て、誰かが座って、そして帰っていった後の静けさ。
それが、少しずつ店の空気を変えている。
「……変わるもんだな」
朔夜はカップを拭きながら、ぽつりと呟いた。
開店してから、まだ日も浅い。
それなのに、店はすでに“昨日までと同じ場所”ではなくなっている。
「にゃ」
クロノは窓際で丸くなったまま、目だけを細く開ける。
外の光が、ゆっくりと傾いていくのを見ていた。
扉のベルは、もう鳴らない。
客が去ってから、しばらく経っていた。
朔夜はカウンターの椅子を軽く直す。
ガルドが座っていた場所。
少女が座っていた場所。
エルフが一瞬だけ腰を下ろした場所。
まだ“常連”と呼べるものではない。
それでも、そこに“同じ場所を使った誰か”がいるという事実だけが残っていた。
(常連、か)
その言葉が、ふと頭に浮かぶ。
まだ誰も、そう呼べるほどではない。
でも――形だけなら、もう始まっている気がした。
朔夜は小さく息を吐く。
「まだ、店って感じでもないのにな」
自嘲にも似た呟き。
けれど、嫌な気持ちはなかった。
クロノが尻尾をゆっくりと動かす。
まるで、“それでいい”とでも言うように。
朔夜はふと、カウンターの奥に視線を向ける。
磨かれた木の表面に、薄い光が落ちている。
そこには、まだ名前のない時間が積もっていた。
ただ、人が来て。
ただ、飲んで。
ただ、帰っていく。
それだけの繰り返し。
なのに、その繰り返しが“場所”を作り始めている。
「……焦る必要は、ないか」
ぽつりと落とすように言う。
その言葉に、答える声はない。
ただ、クロノが小さく伸びをした。
黒猫亭はまだ小さい。
だが確かに、“誰かが戻ってくるかもしれない場所”へと変わり始めていた。
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