第十七話 名前の置き場所
少女が帰ったあと、黒猫亭は再び静けさを取り戻していた。
扉が閉まる音の余韻だけが、ほんの少しだけ店内に残る。
それもすぐに、湯気と空気に溶けていった。
代わりに残ったのは、カップを洗う水音だけだった。
外では街の喧騒が続いている。
荷車の軋む音。
誰かを呼ぶ声。
生きている街の音なのに、この店の中だけは切り離されたように穏やかだった。
「……少しずつ増えてるな」
朔夜は拭き上げたカップを棚に戻しながら呟く。
ガルド。
そして、昨日の少女。
たったそれだけのはずなのに、“店”という形が少しずつ輪郭を持ちはじめていた。
まだ曖昧で、頼りない形。
それでも確かに、そこにある。
「にゃ」
クロノがカウンターの上で丸くなる。
いつも通りの動き。
変わらない仕草が、この店の時間を静かに固定しているようだった。
昼前。
光が少しだけ強くなり、木の床に淡い影を落とす。
朔夜はふと、カウンターの端に視線を落とした。
少女が座っていた席。
椅子の位置がわずかにずれたままになっている。
ほんの数時間前のことなのに、妙に遠い。
それでも確かに、そこに人がいたという痕跡だけが残っていた。
「……次来たときは、名前くらい聞いてみるか」
湯を落とす音に紛れるように、ぽつりと浮かぶ。
強い決意ではない。
ただ、次があるかもしれないという薄い前提。
その上に乗った、さらに薄い思考だった。
クロノが窓際で小さく鳴いた。
「にゃ」
まるで、それでいいとでも言うように。
黒猫亭の昼は、静かに続いていく。
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