第十六話 名前のない常連
翌朝。
黒猫亭は、いつも通り静かに始まった。
ランプの灯り。
豆を挽く音。
湯気の立つコーヒーの香り。
それらがゆっくりと店内を満たしていく。
「……昨日のは、夢じゃないよな」
朔夜はカップを並べながら、小さく呟いた。
少女の顔。
コーヒーを飲んだときの、あの緩む表情。
確かに“客”が来たという実感だけが残っている。
「にゃ」
クロノがカウンターの上で伸びる。
いつも通りだ。
その“いつも通り”が、少しだけ救いだった。
午前の光が差し込み始めた頃。
カラン。
扉のベルが鳴る。
「……早いな」
朔夜は顔を上げる。
入ってきたのは、昨日の少女だった。
荷物はない。
少しだけ落ち着いた服装で、きょろきょろと店内を見る。
「……ちゃんと、今日も開いてるんですね」
ぽつりと呟く。
その声には、昨日よりも少しだけ安心が混ざっていた。
「いらっしゃいませ」
朔夜が声をかけると、少女はぱっと顔を上げる。
「また来ちゃいました」
少し照れたように笑う。
昨日の続きのような来店だった。
「コーヒー、でいいですか?」
「はい!」
迷いのない返事。
朔夜は同じ手順でコーヒーを淹れる。
湯を落とす音。
広がる香り。
それを見ている少女の表情が、自然と落ち着いていく。
「ここ、ほんとに落ち着きますね」
カップを受け取りながら、少女は言った。
「外だとずっと気が張ってて……」
「でもここに来ると、なんか……止まれる感じがするんです」
朔夜は少しだけ目を細める。
神が言っていた“効果”。
それが、もう現実として動いている。
「無理しなくていい場所、ってことですかね」
ぽつりと返すと、少女は少し考えてから頷いた。
「たぶん、それです」
カップを両手で包み、また一口。
昨日より、飲むペースが少しだけ落ち着いている。
“慣れ”というより、“馴染み”に近い変化だった。
朔夜はそれを見ながら、ふと気付く。
(この子、名前まだ聞いてないな)
だが、今はそれでいい気もした。
無理に線を引く必要はない。
クロノが窓際で小さく鳴いた。
「にゃ」
まるで、“そのうち分かる”と言うように。
黒猫亭の朝に、またひとつ静かな来客が増えていた。
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