第十五話 残る余韻
少女はカップを両手で包むように持ち、湯気をじっと見つめている。
「……これ、すごく落ち着きますね」
小さな声だった。
けれど、その一言は妙に店の空気に馴染んでいた。
朔夜は軽く頷く。
「無理して急がなくていいですよ」
ただそれだけ言う。
それ以上の説明は必要ない気がした。
少女はゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。
「……っ」
一瞬だけ目を見開き、それからふっと力が抜ける。
肩の緊張がほどけていくのが分かった。
「……疲れてたんだな、思ったより」
ぽつりと零す。
そのまま黙って、もう一口。
飲むたびに、少しずつ表情が柔らかくなっていく。
朔夜はそれを見ながら、カップを拭いていた。
まだ何も特別なことはしていない。
ただ、コーヒーを出しただけだ。
それなのに。
この店の中では、それが“意味を持っている”。
やがて少女はカップを置いた。
「……ありがとうございました」
丁寧に頭を下げる。
さっきより少しだけ、声が軽い。
「また来ます」
その言葉は、軽い約束のようでいて。
どこか自然だった。
「はい。お待ちしてます」
朔夜はそう返す。
カラン。
扉のベルが鳴り、少女が出ていく。
外の光が一瞬だけ差し込んで、また消えた。
店内に静けさが戻る。
「……ふぅ」
朔夜は小さく息を吐いた。
たった一杯のコーヒー。
たった一人の客。
それだけなのに、店の空気が少し変わった気がした。
「にゃ」
クロノが窓際で丸くなる。
まるで「これでいい」と言うように。
朔夜はカップを洗いながら、ふと外を見る。
まだ始まったばかりの街。
まだ数人しか来ていない店。
それでも。
黒猫亭は、確かに“誰かの記憶”に残り始めていた。
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