第百六十五話 仕込みの朝と、新たな看板
静かな店休日が明け、黒猫亭の朝は心地よい包丁の音から始まった。
トントン、トントン――。
リズム良く刻まれるのは、たっぷりのタマネギとニンジン、そして香草。
大鍋の中では、じっくりと煮込まれた鶏ガラと野菜のスープが、フツフツと黄金色の湯気を上げている。
「よし、スープのベースはいい感じだな」
「みぁ〜」
エプロン姿の朔夜の足元で、クロノが眠たそうに目をこすりながら、すりすりと足首に体をすり寄せてきた。
「おはよう、クロノ。お腹すいたか?」
朔夜が小皿に分けてやった温かいミルク煮を、クロノは「ペチャペチャ」と嬉しそうに平らげていく。
◆
朝の仕込みを一通り終えた朔夜は、昨日の店休日にふと考えた「あること」を実行に移すことにした。
店の奥から取り出してきたのは、一枚の頑丈な木製看板と、塗料の筆。
(両親が遺してくれたこの店は、異世界と元の世界を繋ぐ大切な場所……。だけど、ここを訪れる人たちにとっては、ただ『お腹を満たして、ほっと息をつける場所』であればいいんだ)
両親が事故で急逝し、戸惑いながら受け継いだこの店。
異世界の秘密を知った今だからこそ、改めて訪れるすべての人を温かく迎え入れたいという想いが湧き上がっていた。
朔夜は想いを込め、丁寧な手つきで看板に新しい文字を書き込んでいく。
『黒猫亭――温かいお料理と、寛ぎの時間をあなたに』
◆
塗料が乾いた看板を店頭の扉の横へ飾ると、ちょうど朝の散歩をしていた街の住民たちが足を止め、嬉しそうに声をかけてきた。
「おはよう、サクヤちゃん! 今日からまた営業再開かい?」
「ええ! 森の冷気もすっかり落ち着きましたし、今日からまた美味しいご飯を準備してお待ちしていますね」
「そうかい! 先日の異変の時はどうなるかと思ったけど、またサクヤちゃんの料理が食べられるなら安心だわ」
◆
住民たちの笑顔を見送りながら、朔夜は深く息を吸い込んだ。
澄み渡る青空のもと、黒猫亭の煙突から、香ばしいスープの湯気がゆっくりと上空へ立ち上っていく。
「さあ、クロノ。今日も元気に開店しよう!」
「ふにゃ〜っ!」
カランコロン――と、涼やかなドアベルの音が街に響き渡る。
過去から受け継いだ絆を胸に、黒猫亭の新たな日常が静かに、そして力強く幕を開けた。




