第百六十四話 静かな店休日と、遺された鍵
結界を巡る過酷な探索を終えた翌日、黒猫亭は「臨時休業」の札を掲げ、静かな店休日を迎えていた。
昨夜の賑やかさが嘘のように静まり返った店内。やわらかな午後の差し込みが木製のテーブルをあたたかく照らしている。
「ふぁ……みぁ……」
カウンターの上では、クロノが日当たりの良い場所で丸くなり、スースーと気持ちよさそうに寝息を立てていた。
◆
朔夜はカウンターの奥で丁寧に珈琲を淹れ、静かに湯気を立てるカップを手に取った。
ネルドリップでじっくりと落とした深い香りが、静寂に包まれた店内に広がっていく。
(両親が、二人揃って事故で亡くなったのは……もう何年も前のことだ)
カップを両手で包み込みながら、朔夜はふと過去に思いを馳せる。
あまりにも突然の出来事だった。悲しむ暇もなく慌ただしく手続きを終え、幼い頃からの思い出が詰まったこの小さな喫茶店を、一人で受け継ぐことになったのだ。
◆
(父さんも母さんも、生前は異世界のことなんて一度も話してくれなかったな……)
店を継いだ当初は、ただ両親が愛した場所を残したい一心だった。
だが、地下室の隠し扉やあの真鍮の羅針盤を見つけ、この店が「次元の錨」として世界を繋いでいたことを知った今、新たな疑問と愛おしさが胸に込み上げてくる。
二人にとっても、この喫茶店はただの仕事場ではなく、誰にとっても穏やかでいられる「特別な居場所」だったのだろう。
話してくれなかったのは隠していたからではなく、自分を危険に巻き込みたくなかったからなのか、それともいつか自然に受け取る日を信じていたからなのか――今となっては確かめる術はない。
けれど、その想いだけはしっかりとこの店と料理の中に息づいていた。
◆
「……みぁん?」
ふと気配を感じて視線を落とすと、目を覚ましたクロノがトコトコと歩み寄り、朔夜の膝の上へひょいと飛び乗ってきた。
言葉は話さないけれど、全てを察したような温かい眼差しで朔夜を見つめ、前足でそっと腕を突っついてくる。
「ありがとう、クロノ。……大丈夫、寂しくはないよ」
朔夜は愛おしそうにクロノのやわらかい背中を撫でた。
「父さんと母さんが守ってきたこの店を、今度は俺とクロノで……そしてあのみんなと一緒に、ずっと温かい場所にしていこうな」
「ふにゃ〜ん」
静かな店休日の午後。
過去の思い出と未来への決意をそっと胸に抱きながら、朔夜とクロノはあたたかな陽だまりの中で穏やかな時間を過ごすのだった。




