第9話 見ている人が、いなくなる瞬間
放課後。
同じ教室。
でも今日は、完全に違っていた。
「……なんでまた残ってる」
鞄を持ったまま、俺は言う。
「うん」
ヨミは頷く。
「昨日の続き」
その一言で、全部が繋がる。
帰る理由は、もうない。
逃げる理由も、弱くなっている。
⸻
教室の中には、まだ数人残っている。
部活前のやつら。
スマホをいじってるやつ。
笑ってるやつ。
普通の、放課後。
「ねえ」
ヨミが言う。
「今日はさ」
一歩、近づく。
昨日と同じ距離。
でも——
周りに人がいる。
「ここで、やろうか」
その意味を理解するのに、時間はかからなかった。
「……バカか」
「だって」
ヨミは、少しだけ笑う。
「みんな見てるなら、壊れないんでしょ?」
論理は正しい。
だから、怖い。
⸻
距離が縮まる。
教室のざわめきは、そのまま続いている。
誰も気にしていない。
“義理の兄妹”が近いだけ。
それだけの認識。
でも——
俺には違う。
近い。
昨日よりも、明らかに近い。
⸻
「ねえ」
ヨミの手が、腕に触れる。
昼間と同じ。
でも、違う。
今日は——
離さない。
「……やめろ」
言う。
でも、声は小さい。
ヨミは、そのまま体を寄せる。
肩が触れる。
胸が、軽く当たる。
呼吸が、混ざる。
「大丈夫だよ」
囁く。
「みんな見てるから」
その一言で、
“やってはいけないことが許される”空気になる。
⸻
周りを見る。
誰も見ていない。
いや——
“見ているはずなのに、認識していない”。
視界の中にはいるのに、
関係のないものとして処理されている。
「……おかしいだろ」
呟く。
ヨミは、少しだけ笑う。
「そう?」
さらに、近づく。
もう、ほとんど重なっている。
⸻
そのとき。
一人、席を立つ。
教室の端にいた男子。
何気なく、こちらを見る。
視線が、一瞬だけ合う。
——観測された。
そのはずだった。
でも。
「……あれ?」
そいつは、首をかしげる。
まるで、
“何もなかったみたいに”。
視線を外す。
そのまま、スマホに戻る。
「……今の、見ただろ」
「うん」
ヨミはあっさり言う。
「でも、見てないね」
意味がわからない。
でも——
嫌な予感がする。
⸻
「ねえ」
ヨミが言う。
「“見てる”ってさ」
指が、ゆっくりと俺の手に絡む。
逃げられない。
「ただ目に入るだけじゃ、足りないんだね」
その言葉で、理解する。
観測。
認識。
存在。
「ちゃんと、“意識されてる”人じゃないと——」
ヨミが、少しだけ顔を上げる。
その目は、もう迷っていない。
「世界を固定できない」
背筋が冷える。
⸻
その瞬間。
教室のざわめきが、ほんの少しだけ遠くなる。
音量が、下がる。
いや——
“削られている”。
「……やめろ」
はっきり言う。
今度は、強く。
でも、遅い。
⸻
ヨミが、さらに近づく。
額が触れる。
昨日と同じ。
でも、今日は違う。
周りがいる。
はずなのに。
音が、薄い。
空気が、軽い。
存在感が、弱い。
「ねえ、お兄ちゃん」
囁く。
「今なら、いけるよ」
その一言で、全てが決まる。
「……何を」
わかっているのに、聞く。
ヨミは、少しだけ笑う。
「もう一歩」
顔が、近づく。
唇の距離が、ほとんどゼロになる。
⸻
そのとき。
背後で、椅子が鳴る音がした。
振り返る。
誰かが、立ち上がったはずだった。
でも——
誰もいない。
「……は?」
さっきまでいたはずの席が、空いている。
違和感が、遅れてやってくる。
「一人、いなくなったね」
ヨミが、静かに言う。
「な……」
言葉が出ない。
「ねえ」
ヨミは、もう止まらない。
「どこまで消せば——」
視線が、完全にこちらに向く。
「私たちだけになるのかな」
⸻
その瞬間。
教室の音が、一段階下がる。
笑い声が、遠くなる。
存在が、薄くなる。
世界が、削られていく。
「やめろ!!」
叫ぶ。
でも——
声が、広がらない。
空間が、受け止めない。
⸻
ヨミの手が、頬に触れる。
昨日と同じ。
でも、今日は違う。
温度が、はっきりしている。
現実感が、強すぎる。
「ねえ」
囁く。
「今なら」
呼吸が、完全に重なる。
「消えないよ」
その言葉が、甘くて。
危険で。
逃げられない。
⸻
唇が、触れる寸前。
その距離で、
世界が、一度だけ大きく歪んだ。
黒板が波打つ。
机の直線が曲がる。
空気が、裂ける。
⸻
次の瞬間。
教室には、
俺とヨミしかいなかった。




