第10話 世界が、二人だけになった
静かだった。
音がない。
いや——
音はある。
でも、広がらない。
吸い込まれるみたいに、すぐに消える。
「……なあ」
声を出す。
自分の声が、自分のすぐ近くで止まる。
反響がない。
空間が、浅い。
「……ヨミ」
目の前にいる。
距離は、近いまま。
さっきまでと同じ。
でも——
決定的に違う。
「ねえ」
ヨミが言う。
その声だけが、はっきり届く。
「どう?」
ゆっくりと周りを見る。
教室。
机。
黒板。
全部ある。
でも。
“気配”がない。
人がいたはずの場所が、
ただの空間になっている。
「……いない」
喉が乾く。
「誰も」
言葉にすると、現実になる。
ヨミは、嬉しそうに笑った。
「うん」
当たり前みたいに頷く。
「二人だけだね」
その言い方が、
あまりにも自然で。
背筋が冷える。
⸻
一歩、動く。
床の感触が、やけに鮮明だ。
靴底が、きしむ。
その音が、すぐに消える。
「……戻せるのか」
言う。
誰に向けたかわからない言葉。
ヨミは少しだけ首をかしげる。
「戻したい?」
即答できない。
その一瞬の迷いを、
ヨミは見逃さない。
「ほら」
一歩、近づく。
もう、ほとんど距離はないのに。
さらに詰めてくる。
「やっぱり、いいんだよ」
その声が、優しい。
優しすぎる。
「邪魔する人、いないし」
手が、伸びる。
頬に触れる。
昨日と同じ。
でも——
感触が違う。
濃い。
現実感が、強すぎる。
「ねえ、お兄ちゃん」
呼吸が、近い。
完全に重なる。
「これが、本当の距離だよ」
その言葉で、理解する。
他人がいない世界では、
距離を保つ理由も消える。
⸻
「……違う」
言う。
でも、弱い。
ヨミは止まらない。
指が、ゆっくりと滑る。
頬から、首へ。
「何が違うの?」
囁く。
その声が、耳の奥に残る。
逃げ場がない。
音も、空間も、全部が近い。
「だって」
ヨミは、少しだけ笑う。
「お兄ちゃん、さっき迷ったよね」
心臓が、強く鳴る。
ドクン、と一つ。
その音だけが、この世界に響く。
「戻したいって、すぐ言えなかった」
言い返せない。
事実だから。
⸻
ヨミの体が、触れる。
今度は、はっきりと。
逃げる余地がない。
でも——
さっきより、自然だ。
「ねえ」
顔が近い。
視線が絡む。
逃げられない。
「ここならさ」
囁く。
「どこまででもいけるよ」
その言葉が、甘くて。
危険で。
現実を侵食する。
⸻
「……ヨミ」
名前を呼ぶ。
でも、その意味が変わっている。
呼び止めるためじゃない。
“確認するため”の声。
ヨミは、すぐに応える。
「うん」
距離が、ゼロになる。
額が触れる。
呼吸が混ざる。
心臓の音が、互いに聞こえる。
「ねえ」
そのまま、ほんの少しだけ顔が傾く。
唇の距離が、なくなる寸前。
「もう、止める理由ないよね」
世界には、もう二人しかいない。
倫理も、視線も、他人もない。
あるのは——
この距離だけ。
⸻
そのとき。
ふと、違和感が走る。
「……待て」
かすかに言う。
ヨミの動きが止まる。
ほんの一瞬。
「どうしたの?」
声は優しい。
でも、その奥に何かがある。
「……静かすぎる」
改めて気づく。
音がない。
風もない。
遠くの気配もない。
世界が、浅い。
「これ……」
言いかけて、止まる。
言葉にしたくない。
でも。
「……続くのか?」
このまま。
ずっと。
二人だけで。
⸻
ヨミは、少しだけ考えるように目を伏せて、
それから、ゆっくりと顔を上げる。
「続くよ」
静かに言う。
「お兄ちゃんが、望めば」
その一言で、
全部が繋がる。
この世界は、
ヨミだけのものじゃない。
俺の認識も、関わっている。
⸻
「……もし、望まなかったら」
声がかすれる。
ヨミは、少しだけ笑う。
寂しそうに。
でも、どこか覚悟を決めた顔で。
「そのときは——」
言葉が、少しだけ止まる。
それから。
「また、壊れるね」
その一言が、重く落ちる。
⸻
沈黙。
近い距離のまま。
触れたまま。
でも、動かない。
選択が、そこにある。
進むか。
戻るか。
⸻
ヨミが、小さく言う。
「どうする?」
その問いに、
俺は——
まだ答えられなかった。




