第11話 世界の終わりで、君に触れる
静寂は、もう背景じゃなかった。
空気そのものだった。
呼吸をするたびに、
その静けさを吸い込んでいるみたいだった。
「……ヨミ」
名前を呼ぶ。
すぐ近くで、すぐに返ってくる。
「うん」
その距離に、もう違和感はない。
近いのが、普通になっている。
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「選ぶよ」
言葉にした瞬間、世界がわずかに揺れた。
音はない。
でも、何かが確実に変わる気配。
ヨミの目が、ゆっくりと見開かれる。
「……ほんとに?」
「ああ」
迷いは、もうなかった。
戻る理由も、
戻る先も、
はっきりしなくなっていた。
あるのは、ここだけだ。
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ヨミが、息を吸う。
その動きが、はっきり見える。
胸がわずかに持ち上がり、
すぐにゆっくりと落ちる。
そのリズムに、俺の呼吸が引き寄せられる。
重なる。
同じ速さになる。
「ねえ」
ヨミが言う。
声が、やわらかい。
でも、その奥に震えがある。
「ほんとに、いいの?」
問いかけなのに、
どこか願いに近い。
「いい」
短く答える。
それだけで、十分だった。
⸻
ヨミが近づく。
もう距離はないはずなのに、
それでも、さらに近づく。
境界を探すみたいに。
確かめるみたいに。
胸が触れる。
逃げない。
避けない。
そのまま、重なる。
柔らかい圧が、じわりと伝わる。
「……あったかい」
ヨミが、小さく言う。
その声が、直接伝わる。
空気を介さずに、
体の中に入ってくるみたいに。
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腕が回る。
自然に。
どちらからともなく。
引き寄せる。
離れないように。
離れなくていいように。
体と体の間にあった空間が、
完全に消える。
「ねえ、お兄ちゃん」
耳元で、囁く。
息が、直接触れる。
「もう、誰もいないね」
「ああ」
答える。
それが肯定になる。
世界の確定になる。
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触れている部分が、増えていく。
肩。
腕。
胸。
呼吸。
すべてが重なっていく。
境界が、曖昧になる。
どこまでが自分で、
どこからがヨミなのか、
わからなくなる。
「ねえ」
ヨミが、ほんの少しだけ顔を上げる。
距離は、ゼロのまま。
視線だけが合う。
「このまま、溶けちゃえばいいのに」
その言葉が、
現実になる感触があった。
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額が触れる。
昨日と同じ。
でも、違う。
拒む理由が、もうない。
止めるものも、ない。
呼吸が、完全に重なる。
吸うタイミングも、吐くタイミングも、
同じになる。
一つのリズムになる。
⸻
「ねえ」
ヨミの声が、かすかに震える。
「ここまで来たらさ」
顔が、わずかに傾く。
唇の距離が、消える。
触れる。
ほんの、軽く。
一瞬だけ。
でも——
その一瞬が、世界を満たす。
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音が、消える。
光が、にじむ。
教室の輪郭が、ほどける。
すべてが、柔らかく崩れる。
でも、怖くない。
壊れているのに、
むしろ、満ちている。
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離れない。
離す理由がない。
もう一度、触れる。
さっきより、少しだけ長く。
時間の感覚が、曖昧になる。
一秒なのか、永遠なのか、
わからない。
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「……これが」
ヨミが、息の中で言う。
「世界なんだね」
その言葉に、
否定できる要素が一つもない。
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抱きしめる力が、少し強くなる。
確かめるように。
ここにいることを。
消えないことを。
互いに。
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周りを見る。
教室は、もう形を保っていない。
光の塊みたいに、揺れている。
机も、黒板も、
意味を失っている。
残っているのは——
俺と、ヨミだけ。
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「ねえ」
ヨミが、もう一度言う。
声が、近い。
近すぎる。
「ずっと、こうしてていい?」
その問いに、
迷いはなかった。
「ああ」
答える。
それが、世界の最終決定になる。
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その瞬間。
光が、完全にほどけた。
世界が、形を失う。
でも、消えない。
むしろ、
二人の輪郭だけが、はっきりと残る。
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触れている。
重なっている。
離れない。
離れなくていい。
⸻
世界は、二人になった。




