第12話 壊れながら、触れる
最初に気づいたのは、音だった。
わずかなノイズ。
静寂の中に、ひびが入るような感覚。
「……ヨミ」
呼ぶ。
すぐ近くで、応える。
「うん」
その距離は、まだある。
触れている。
重なっている。
でも——
さっきまでと、少しだけ違う。
⸻
光が、揺れている。
完全にほどけたはずの世界に、
かすかな“線”が戻り始めている。
教室の輪郭のようなもの。
でも、安定していない。
「……これ」
言いかける。
ヨミが、先に言う。
「うん」
小さく頷く。
「壊れてきてるね」
その言い方が、あまりにも落ち着いていて、
逆に怖い。
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腕の中の感触を、確かめる。
いる。
ちゃんといる。
温度もある。
呼吸もある。
でも——
ほんの少しだけ、軽い。
「……離れるな」
思わず言う。
ヨミは、少しだけ目を細める。
「離れないよ」
すぐに返す。
その声に、嘘はない。
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でも。
わずかに、距離が揺れる。
触れているはずなのに、
一瞬だけ、触れていない感覚が混ざる。
ノイズみたいに。
「っ……」
息が乱れる。
ヨミの手が、強くなる。
「ねえ」
声が、少しだけ速い。
「ちゃんと、触ってて」
その言葉に、焦りが混じる。
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抱きしめる力を強める。
隙間をなくすように。
空気が入らないように。
境界を、完全に消すように。
胸が押し合う。
呼吸が、ぶつかる。
「……ここにいる」
確認するみたいに言う。
「いるよ」
ヨミが返す。
でも。
その声が、一瞬だけ遠くなる。
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視界が、歪む。
さっきまでなかった“教室の影”が、
ちらつく。
机の角。
黒板の線。
でも、すぐに崩れる。
安定しない。
「……戻ろうとしてる」
言葉が出る。
ヨミは、少しだけ首を振る。
「違うよ」
その目が、まっすぐ俺を見る。
「まだ、決まってないだけ」
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その瞬間。
ヨミの輪郭が、わずかに揺れる。
髪の先が、ほどけるみたいに消えかける。
「……っ」
息が止まる。
「ヨミ」
強く呼ぶ。
ヨミは、すぐに近づく。
いや——
“重なり直す”。
「ほら」
小さく言う。
「近づけば、戻る」
実際、戻る。
さっき消えかけた部分が、はっきりする。
輪郭が、確定する。
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「……なんだよ、それ」
声がかすれる。
ヨミは、少しだけ笑う。
でも、その笑顔も揺れている。
「簡単だよ」
囁く。
「離れると、消える」
「近づくと、保てる」
そのルールが、すぐに理解できる。
単純で、
最悪だ。
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「じゃあ……」
言いかける。
言葉にするのが怖い。
でも、言うしかない。
「ずっと、こうしてないと——」
「うん」
ヨミは、迷わず頷く。
「そういうこと」
その一言で、
世界の条件が確定する。
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触れている。
離れられない。
離れたら、消える。
でも——
近づきすぎると、世界が歪む。
呼吸が重なりすぎると、
空間が裂ける。
さっきのキスのときみたいに。
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「……どうすればいい」
初めて、弱い声が出る。
ヨミは、ほんの少しだけ考える。
それから、
「感じて」
と言う。
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「……何を」
「ちょうどいい距離」
その言葉が、抽象的すぎるのに、
なぜか理解できる。
触れている。
でも、押しつぶさない。
重なっている。
でも、溶けきらない。
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わずかに距離を調整する。
数センチ。
それだけで、
世界の揺れ方が変わる。
「……ここか」
呟く。
ヨミが、少しだけ息を整える。
「うん」
その声が、少し落ち着く。
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でも。
安定は、長く続かない。
また、揺れる。
また、崩れる。
そのたびに、触れ方を変える。
抱きしめる強さを変える。
呼吸を合わせる。
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「ねえ」
ヨミが言う。
声が、少しだけ震える。
「ずっと、こうする?」
その問いは、
未来を含んでいる。
終わりのない調整。
終わりのない接触。
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答えられない。
でも。
離す選択肢は、もうない。
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「……やるしかないだろ」
そう言うと、
ヨミは、少しだけ笑った。
安心したみたいに。
でも、その目には、
まだ不安が残っている。
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触れている。
壊れながら。
調整しながら。
存在を保ちながら。
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世界は、安定しない。
でも、消えない。
完全には。
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「ねえ、お兄ちゃん」
ヨミが、もう一度囁く。
「これ、ずっと続くよ」
その言葉が、
甘くて、
重くて、
逃げられない。
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触れている。
壊れながら。
それでも、離れずに。
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これが、
二人だけの世界の、
“続き”だった。




