第13話 離れたら、終わる
最初に崩れたのは、呼吸だった。
ほんのわずかにずれただけで、
空気が裂ける。
「……っ」
息を吸う。
でも、空気が薄い。
いや——
“合っていない”。
「ヨミ」
呼ぶ。
声が、少しだけ遅れて届く。
「うん」
すぐに返ってくる。
でも、その距離が、
ほんのわずかに遠い。
⸻
「合わせて」
ヨミが言う。
短く。
でも、必死に。
呼吸を整える。
吸う。
吐く。
ヨミの胸の動きに合わせる。
上下。
リズム。
それを、なぞる。
⸻
合う。
その瞬間、世界が戻る。
揺れが、止まる。
「……今の」
かすれた声で言う。
ヨミが、小さく頷く。
「ずれると、崩れる」
その言葉は、もう説明じゃない。
事実だ。
⸻
触れている。
離れない。
でも、それだけじゃ足りない。
呼吸まで、共有しないと維持できない。
「……めんどくせえな」
苦笑みたいに言う。
ヨミは、少しだけ笑う。
「うん」
でも、その笑顔はやわらかい。
「でも、いいでしょ」
⸻
一歩でも離れようとすると、
すぐにわかる。
温度が、途切れる。
存在感が、薄れる。
「……無理だな」
呟く。
ヨミが、少しだけ寄る。
「うん」
当たり前みたいに言う。
「離れられないね」
⸻
腕が回る。
自然に。
抱きしめる。
というより——
固定する。
位置を。
距離を。
呼吸のリズムを。
⸻
「ねえ」
ヨミが囁く。
耳元で。
息が直接触れる。
「これ、ずっとだよ」
その言葉に、
現実感がある。
冗談じゃない。
未来の話でもない。
“今この瞬間の延長”。
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心臓が鳴る。
ドクン、ドクン、と。
その音が、
二人の間で共有される。
どちらのものか、わからなくなる。
混ざる。
重なる。
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「……境界、消えてきてるな」
思わず言う。
ヨミが、少しだけ息を吐く。
「うん」
その吐息が、
そのまま体の中に入ってくる感覚。
「でも、それでいい」
迷いがない。
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指が動く。
無意識に。
触れている場所を、確かめるみたいに。
腕。
肩。
背中。
触れていない場所を探すほうが難しい。
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「ねえ」
ヨミが言う。
声が、少しだけ甘くなる。
「どこまでが、お兄ちゃん?」
答えられない。
答えようとすると、
その境界が曖昧になる。
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「……わかんねえ」
正直に言う。
ヨミは、少しだけ嬉しそうに笑う。
「私も」
その一言が、
妙に安心感を持っている。
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揺れる。
また、わずかに。
呼吸が、ほんの少しだけずれる。
すぐに修正する。
合わせる。
戻す。
⸻
その繰り返し。
維持。
調整。
接触。
呼吸。
存在。
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「ねえ、お兄ちゃん」
ヨミが言う。
少しだけ、声が低い。
「これさ」
ほんの少しだけ、力を強める。
抱きしめる力が増す。
「もう、戻れないね」
その言葉に、
否定する理由がない。
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外の世界。
学校。
家。
他人。
全部、遠い。
というより——
“存在しないもの”に近い。
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「……ああ」
短く答える。
それで、十分だった。
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呼吸を合わせる。
心臓を感じる。
触れている。
離れない。
離れられない。
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その状態が、続く。
時間の感覚がない。
でも、終わらない。
終わる気配がない。
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「ねえ」
ヨミが、もう一度言う。
声が、ほとんど同じ位置から聞こえる。
「これが、ずっと続くなら」
少しだけ間を置いて、
「悪くないよね」
その問いに、
考える必要はなかった。
⸻
「……ああ」
答える。
その一言で、
この世界は維持される。
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触れている。
呼吸を合わせている。
境界が消えている。
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壊れながら。
それでも、続いている。
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これが、
終わらない終末だった。




