最終話 何もなかった顔で、隣にいる
朝。
教室のドアを開ける。
ざわめきが、ある。
椅子の音。
笑い声。
誰かのくだらない会話。
普通の朝。
——のはずだった。
「……」
足が、一瞬だけ止まる。
空気が、重い。
いや、違う。
軽すぎる。
あの“密度”が、ない。
⸻
「おはよ」
声が飛んでくる。
クラスの誰か。
名前は、ちゃんとわかる。
覚えている。
消えていない。
「……おはよ」
返す。
声は、普通に出る。
ちゃんと届く。
広がる。
反響もある。
世界は、戻っている。
⸻
席に向かう。
いつもの場所。
机も、椅子も、黒板も、
全部、ちゃんとある。
壊れていない。
歪んでいない。
完璧に、日常だ。
⸻
「ねえ」
その声で、足が止まる。
振り向く。
ヨミがいる。
同じ制服。
同じ表情。
いつもの距離。
——のはずなのに。
⸻
「おはよう、お兄ちゃん」
普通の声。
普通の笑顔。
でも。
その一言で、
心臓が、ほんの少しだけ速くなる。
ドクン、と。
一つだけ、強く。
⸻
「……おはよ」
返す。
それだけ。
それ以上の言葉は、出てこない。
出すべきじゃない気がする。
⸻
席に座る。
ヨミは、隣に座る。
当たり前みたいに。
何もなかったみたいに。
距離は、普通。
椅子一つ分。
触れていない。
触れていないはずなのに——
⸻
呼吸が、合う。
意識していないのに。
吸うタイミング。
吐くタイミング。
わずかに、重なる。
⸻
「……」
横を見る。
ヨミは前を向いている。
何もしていない。
何も言わない。
でも。
ほんの少しだけ、
息が同じリズムで動いている。
⸻
「……覚えてるのか」
小さく言う。
誰にも聞こえない声で。
ヨミは、少しだけ首を傾ける。
「何を?」
その返しは、自然だ。
嘘に見えない。
でも——
⸻
「……いや、なんでもない」
それ以上、言えない。
言った瞬間、
何かが崩れそうな気がする。
⸻
授業が始まる。
教師の声。
板書の音。
ノートをめくる音。
全部、正常だ。
世界は、戻っている。
完全に。
⸻
でも。
ペンを持つ手が、
ほんの少しだけ震える。
理由は、わかっている。
⸻
触れていないのに、
触れている感覚が残っている。
腕。
肩。
背中。
全部に、記憶がある。
⸻
「ねえ」
ヨミが、ほんの少しだけ顔を寄せる。
距離は、普通。
でも、声は近い。
「今日さ」
小さく言う。
「帰り、一緒に帰る?」
ただの会話。
普通の誘い。
でも——
⸻
「……ああ」
答えてしまう。
迷いなく。
理由もなく。
⸻
ヨミは、少しだけ笑う。
その笑い方が、
ほんのわずかにだけ、
“あのとき”に似ている。
⸻
昼休み。
教室は賑やかだ。
みんな、いる。
誰も欠けていない。
世界は、完全だ。
⸻
でも。
ふとした瞬間に、
音が一段階だけ遠くなる。
ほんの一瞬。
呼吸がずれると、
戻る。
⸻
「……なあ」
思わず呟く。
ヨミが、横を見る。
「なに?」
普通の顔。
普通の声。
⸻
「……なんでもない」
また、それしか言えない。
⸻
放課後。
教室に残る。
理由はない。
でも、残る。
⸻
ヨミも、残る。
当たり前みたいに。
誰も気にしない。
ただの兄妹。
ただの同級生。
⸻
「ねえ」
ヨミが言う。
窓の外を見ながら。
「なんかさ」
少しだけ間を置く。
「最近、変な感じしない?」
その言い方が、曖昧で。
でも、正確で。
⸻
「……するな」
正直に答える。
ヨミは、少しだけ笑う。
安心したみたいに。
⸻
「だよね」
それだけ言って、
少しだけ近づく。
ほんの数センチ。
触れない距離。
⸻
でも。
呼吸が、また合う。
ぴたりと。
意識していないのに。
⸻
沈黙。
夕焼けが差し込む。
同じ光。
同じ教室。
同じ世界。
⸻
「……なあ」
言う。
ヨミが、少しだけこちらを見る。
⸻
「どこまでなら、大丈夫なんだろうな」
その言葉は、
冗談みたいで、
冗談じゃない。
⸻
ヨミは、少しだけ目を細める。
答えは、すぐには出さない。
その代わり——
ほんの少しだけ、
さらに近づく。
⸻
触れていない。
でも、触れる寸前。
あのときと同じ距離。
⸻
「さあ?」
小さく言う。
「試してみる?」
その声は、軽い。
でも、軽くない。
⸻
俺は、何も言わない。
でも、動かない。
離れない。
⸻
呼吸が、重なる。
夕焼けの中で。
何もなかった顔で。
⸻
隣にいる。
ー完ー




