第8話 放課後、触れてはいけない距離
放課後。
教室の空気は、昼間よりもわずかに重い。
窓から入る夕焼けが、机の角を鈍く照らしている。
埃が、ゆっくりと浮いているのが見えるくらい、静かだ。
「……帰るぞ」
言葉は出る。
でも、喉の奥が少し乾いている。
ヨミは答えない。
ただ、こちらを見ている。
その視線が、逃がさない。
⸻
一歩。
ヨミが近づく。
床が鳴らないくらいの、ゆっくりした足取り。
呼吸が、聞こえる。
浅くて、でも整っている呼吸。
俺の呼吸は、それに引っ張られるみたいに乱れる。
「ねえ」
声が低い。
昼間より、少しだけ温度がある。
「まだ、帰りたくない」
その一言で、距離の意味が変わる。
⸻
さらに一歩。
光の中に入ってくる。
ヨミの輪郭が、はっきりする。
細い肩。
制服の上からでもわかる、柔らかい曲線。
息を吸うたびに、わずかに上下する胸元。
目を逸らすべきなのに、逸らせない。
「……ヨミ」
名前を呼ぶ。
止めるため。
でも、声が弱い。
ヨミは止まらない。
⸻
距離が消える。
胸が、触れる。
ほんの軽く。
制服越しの、柔らかい圧。
その瞬間、心臓が強く跳ねる。
ドクン、と一つ。
それが、自分でもはっきりわかるくらい大きい。
ヨミは、それを感じ取ったみたいに、少しだけ息を深くする。
「……聞こえる」
小さく言う。
「お兄ちゃんの心臓」
息がかかる距離。
吐息が、頬に触れる。
温度が、近い。
近すぎる。
⸻
「離れろ」
言う。
でも、声が震えている。
ヨミは、ほんの少しだけ体重を預けてくる。
圧が増す。
逃げ場がない。
背中は壁。
前はヨミ。
間にある空気が、ほとんどない。
「ねえ」
ヨミの指が、ゆっくり上がる。
俺の腕に触れる。
軽く。
でも、その接触がやけに鮮明だ。
指先の温度。
肌の上をなぞる感覚。
一つ一つが、やけに細かくわかる。
「ここ」
腕から、肩へ。
ゆっくりと移動する。
「触っていい?」
そう言いながら、もう触れている。
止めるべきなのに、
その動きを目で追ってしまう。
⸻
指が、首元に触れる。
一番敏感な場所。
呼吸が一瞬止まる。
ヨミの呼吸が、近い。
吸う音。
吐く音。
それが、耳元で反響する。
「ねえ」
囁く。
「ちゃんと、感じてる?」
答えられない。
言葉が出ない。
代わりに、心臓が答えている。
さっきよりも速く。
強く。
⸻
ヨミの顔が近づく。
夕焼けの中で、輪郭がやわらかく溶ける。
睫毛の一本まで見える距離。
鼻先が触れそうになる。
その瞬間。
自分の呼吸と、ヨミの呼吸が、ぶつかる。
空気が混ざる。
境界が曖昧になる。
「……ヨミ」
名前を呼ぶ。
最後のブレーキみたいに。
ヨミは、少しだけ目を細める。
「うん」
その返事が、近い。
近すぎる。
⸻
額が触れる。
軽く。
ほんのわずか。
でも、その接触が全身に広がる。
視界が、わずかに歪む。
教室の直線が、ほんの少しだけ曲がる。
「……っ」
息が乱れる。
ヨミは、それを逃さない。
「ほら」
小さく笑う。
「やっぱり、壊れる」
額を離さない。
距離も離さない。
むしろ、ほんの少しだけ近づく。
唇の距離が、数センチまで縮まる。
「このままいったら」
囁く。
「どうなると思う?」
わかっている。
聞くまでもない。
でも——
言葉にしたら終わる。
⸻
「……ダメだ」
ようやく出た言葉。
ヨミの動きが、止まる。
呼吸だけが残る。
近いまま。
その距離で、数秒。
長い。
異様に長い。
⸻
やがて、ヨミがゆっくりと離れる。
ほんの数センチ。
それだけで、空気が戻る。
「そっか」
小さく言う。
でも、その声に不満はない。
むしろ、確かめたみたいな響き。
「今日は、ここまでだね」
“今日は”という言葉が残る。
終わりじゃない。
続きがある。
⸻
体が離れても、
さっきの感覚が残る。
触れた場所が、まだ熱い。
呼吸も、すぐには戻らない。
心臓だけが、遅れて落ち着こうとしている。
ドクン、ドクン、と。
はっきりと、自分の中で鳴っている。
⸻
「……帰るぞ」
今度は、本当に言う。
ヨミは、素直に頷く。
「うん」
でも、その目は違う。
次を見ている。
⸻
ドアを開ける。
廊下の音が戻る。
現実が戻る。
でも——
さっきまでの距離は、
確かに存在していた。
「ねえ」
歩きながら、ヨミが言う。
「次はさ」
少しだけ間を置いて、
「どこまでいけるかな」
その声は軽い。
でも、軽くない。
俺は答えない。
でも——
心臓は、まだ速いままだった。




