第7話 みんながいるのに、二人だけになる
朝。
教室に入った瞬間、空気が少しだけ違った。
ざわめきはある。
人もいる。
昨日と同じ、普通の朝。
——のはずなのに。
「おはよ」
声をかけられる前に、わかる。
ヨミだ。
振り向くと、すぐ後ろにいる。
近い。
近すぎる。
「……おはよ」
それだけ返す。
でも、ヨミは動かない。
距離を保たない。
そのまま、俺の席の横に立つ。
「今日も、隣ね」
当たり前みたいに言う。
周りのやつらは、特に気にしていない。
“義理の妹”だから。
それだけで、説明がついてしまう。
でも——
違う。
この距離は、違う。
⸻
一限目。
授業は始まっている。
教師の声が前から聞こえる。
でも、頭に入らない。
理由は簡単だ。
ヨミが、近い。
隣の席。
それだけじゃない。
椅子の距離が、微妙に詰まっている。
肩が、触れそうで触れない。
ノートを書く手が、時々かすめる。
意図的じゃない。
でも、偶然にしては多すぎる。
「……やめろ」
小さく言う。
前を向いたまま。
ヨミは少しだけ笑う。
「何が?」
わかってて言ってる。
「近い」
「普通だよ」
即答。
でも、普通じゃない。
「だって、お兄ちゃん」
小さく囁く。
誰にも聞こえない距離で。
「ここでも、家でも同じでしょ?」
背筋がぞくっとする。
「逃げられないよ」
その一言が、深く刺さる。
⸻
授業中。
消しゴムが落ちる。
コロ、と床に転がる。
同時に、二人で手を伸ばす。
触れる。
指先が、重なる。
一瞬。
ほんの一瞬。
でも——
離れない。
「……取れよ」
俺が言う。
声が少しだけかすれる。
ヨミは、指を重ねたまま言う。
「お兄ちゃんこそ」
時間が止まる。
教師の声も、周りの音も、遠くなる。
この距離だけが、現実になる。
「離せ」
「やだ」
小さく。
でも、はっきりと。
心臓の音がうるさい。
触れている。
でも、それ以上は進まない。
進めない。
「……見られてる」
ようやくそれだけ言う。
ヨミは、少しだけ首をかしげる。
「誰に?」
その問いで、理解する。
ヨミの中では、
“他人”の存在が、薄い。
「……みんなに」
「見えてるのかな」
ヨミは、少しだけ不思議そうに言う。
その言葉が、怖い。
「見えてるに決まってるだろ」
「そっか」
納得したように言う。
でも。
そのあと、小さく付け足す。
「じゃあ、消えないね」
一瞬、呼吸が止まる。
何の話だ。
何を基準にしてる。
「……何が」
「だって」
ヨミは、ようやく指を離す。
でも、その距離は変わらない。
「みんなが見てるなら、」
「ここはまだ、“壊れない”」
そのロジックが、背筋を冷やす。
⸻
昼休み。
教室は騒がしい。
みんなが弁当を広げている。
その中で。
ヨミは、当たり前みたいに俺の隣に座る。
「ここでいい?」
もう聞いてない。
座ってから言っている。
距離は、また近い。
肩が触れる。
太ももが、ほんの少しだけ当たる。
逃げ場がない。
「……ヨミ」
名前を呼ぶ。
それだけで、何かが伝わると思った。
ヨミは、嬉しそうに笑う。
「呼んだね」
「当たり前だろ」
「うん」
少しだけ、目を細める。
「やっぱり、私なんだね」
意味がわからない。
でも、わかる気もする。
「他の人の名前、呼ばないもんね」
言われて気づく。
確かに。
最近、他の誰かの名前を呼んだ記憶が、薄い。
「……そんなことない」
否定する。
でも、言葉が弱い。
ヨミは、何も言わない。
ただ、少しだけ近づく。
ほんの数センチ。
でも、それだけで距離が変わる。
「ねえ」
耳元で、囁く。
「どこまで近づいたら、」
「他の人、いらなくなるのかな」
その言葉が、甘くて、危険で。
思考が揺れる。
「……やめろって」
「やめないよ」
即答。
「だって、お兄ちゃん」
ほんの少しだけ、体重が寄る。
触れる。
逃げない。
「嫌がってないもん」
言い返せない。
否定できない。
それが、一番まずい。
⸻
そのとき。
クラスの誰かが、笑った。
普通の笑い声。
日常の音。
でも、それがやけに遠い。
まるで、
この空間だけ切り離されているみたいに。
「……なあ」
俺は、ゆっくり言う。
「今、普通に見えてるよな」
ヨミは少し考えて、
「たぶん」
と答える。
「でも」
そのあと、小さく笑う。
「そのうち、見えなくなるかもね」
何が。
誰が。
聞けない。
聞きたくない。
でも——
その未来を、
少しだけ想像してしまう自分がいる。




