第6話 家の中でだけ、距離は壊れる
家に帰ると、灯りはついていなかった。
「……母さん、まだか」
「うん。今日は遅いって」
ヨミが鍵を閉める音が、やけに大きく響く。
この家には、三人で住んでいる。
でも——
血は、繋がっていない。
「……あのとき、だよな」
俺は靴を脱ぎながら言った。
「ヨミが転校してきたの」
ヨミは少しだけ笑って、
「うん。同じクラスになった日」
と答える。
「あれ、最悪だったよね」
「何がだよ」
「だって、お兄ちゃん」
リビングに入る。
カーテンは閉じられていて、部屋は少し暗い。
「ずっと見てたもん」
その言い方は、軽いのに重い。
「……たまたまだろ」
「違うよ」
ヨミは首を振る。
「みんなは、名前で見るの」
「出席番号とか、席順とか」
「でもお兄ちゃんは——」
一歩、近づく。
「最初から、“私”を見てた」
胸の奥がざわつく。
否定できない。
あの日、教室に入ってきたヨミを、
理由もなく、ずっと見ていた。
「ねえ」
ヨミの声が少し柔らかくなる。
「それって、何だと思う?」
答えられない。
答えたくない。
ヨミはもうわかっている顔をしている。
「同じクラスになったのも」
少し間を置いて、
「同じ家になったのも」
視線を外さずに言う。
「全部、繋がってる気がするんだよね」
冗談みたいに言う。
でも、冗談じゃない。
⸻
沈黙が落ちる。
時計の音だけが、やけに響く。
「……風呂、入るか」
逃げるみたいに言う。
ヨミは少しだけ考えて、
「時間ずらす?」
と返す。
その言い方が妙に現実的で、逆に意識する。
「……ああ」
短く答える。
⸻
風呂の音が、ドア越しに聞こえる。
水音。
気配。
同じ家にいる。
同じクラスで、同じ時間を過ごして、
帰ってきても同じ空間にいる。
距離が、近すぎる。
学校でも、家でも。
逃げ場がない。
⸻
風呂から出ると、ヨミはソファに座っていた。
髪が少し濡れている。
「おかえり」
その一言が、やけに自然で。
「……ただいま」
と返してしまう。
同級生なのに。
家では、妹として。
その境界が、曖昧になる。
「ねえ」
ヨミが言う。
「さっきの話の続き」
逃げられない。
「……何だよ」
「お兄ちゃんが、私を最初から見てた理由」
ゆっくりと立ち上がる。
距離が縮まる。
教室と同じ。
でも、ここは家だ。
もっと逃げ場がない。
「もしさ」
ヨミは、目を逸らさずに言う。
「それが“選ばれてる”ってことだったら?」
言葉が重い。
「……誰に」
「世界に」
即答だった。
息が詰まる。
笑えない。
「お兄ちゃんの世界ってさ」
ヨミはゆっくり言う。
「お兄ちゃんが見てるもので出来てるんだよね」
また、その話。
でも今回は違う。
距離が、近い。
近すぎる。
「じゃあさ」
ヨミは、ほんの少しだけ手を伸ばす。
「私が、全部になったら」
指先が、俺の手に触れる。
軽く。
ほんの一瞬。
「どうなると思う?」
心臓が強く打つ。
離すべきだ。
でも、離せない。
触れているのに、
それ以上は進まない。
進めない。
「……やめろ」
声がかすれる。
ヨミは少しだけ寂しそうに笑う。
「やめないよ」
静かに言う。
「だって、学校でも家でも」
「ずっと一緒なんだから」
その一言で、
逃げ場が完全に消える。
「ねえ、お兄ちゃん」
手は離さない。
「どこまで近づいたら、壊れるのかな」
その問いは、甘くて、危険だった。
⸻
夜。
自分の部屋。
ベッドに横になっても、眠れない。
同じクラス。
同じ家。
同じ時間。
距離が、ゼロに近づいている。
「……まずいだろ」
呟く。
でも、その“まずさ”の正体がわからない。
倫理か。
恐怖か。
それとも——
期待か。
考えたくない。
でも、考えてしまう。
「お兄ちゃん」
ドアの向こうから、声。
ノックはない。
ただ、声だけ。
「……何だよ」
「明日さ」
少し間を置いて、
「学校でも、隣にいていい?」
息が止まる。
「……今でも隣だろ」
「そうじゃなくて」
静かに言う。
「ちゃんと、“隣”にいたいの」
その意味が、わかる。
「……勝手にしろ」
ぶっきらぼうに返す。
沈黙。
そのあと、
「うん」
と小さく返ってくる。
足音が遠ざかる。
それだけなのに、
なぜか、ほっとする。
同時に、
少しだけ、残念に思っている自分がいる。
⸻
この家の中だけ、
距離のルールが壊れている。
学校でも、壊れ始めている。
内と外の境界が、
ゆっくりと溶けていく。
その先にあるものを、
まだ俺は、知らない。




