第5話 触れたら、消える
夕方だった。
教室の窓は半分だけ開いていて、風がカーテンを揺らしていた。
誰もいない。
いや——正確には、俺とヨミだけがいる。
「……静かだね」
ヨミが言った。
その声は、いつもより少しだけ低くて、
教室の空気に溶けるみたいに広がった。
「みんな、帰ったのか」
「うん。部活とか、塾とか」
ヨミはそう言いながら、窓の外を見ている。
その横顔は、どこか遠くを見ているみたいで。
俺は、言葉を選ぶのに時間がかかった。
「……あいつのこと」
ヨミの肩が、ほんのわずかに止まる。
クラスから一人、消えた。
名前も、記録も、最初からいなかったみたいに。
でも俺だけは覚えている。
——そして、ヨミも。
「覚えてる?」
「……うん」
ヨミは振り向いた。
「お兄ちゃんも?」
「ああ」
その瞬間、何かが確定した気がした。
世界の中で、
“共有された例外”が、二人だけになった。
「ねえ」
ヨミが一歩、近づく。
「どうしてだと思う?」
距離が縮まる。
教室の空気が、わずかに濃くなる。
「……わからない」
正直に言った。
仮説はある。
でも、それを言葉にした瞬間、何かが壊れそうだった。
ヨミは、じっと俺を見る。
逃げ場を探すみたいに、
でも同時に、逃がさないみたいに。
「私ね」
ヨミが言う。
「“好き”って、こういうことだと思ってた」
「……どういう?」
「世界の中で、その人だけが特別になること」
風が吹く。
カーテンが大きく揺れて、光が揺れる。
「でも違った」
ヨミの声は、少しだけ震えていた。
「特別になるんじゃなくて……」
一歩、さらに近づく。
「他が、いらなくなるんだね」
その言葉は、軽くなかった。
教室の温度が、わずかに下がった気がした。
「ヨミ、それ——」
言いかけて、止まる。
言葉にした瞬間、
それが“現実になる”気がした。
ヨミは笑った。
いつもの、柔らかい笑顔じゃない。
少しだけ、諦めたみたいな笑顔。
「ねえ、お兄ちゃん」
さらに一歩。
もう、手を伸ばせば届く距離。
「もし私が、もっと好きになったら」
その距離で、ヨミは言う。
「どうなると思う?」
答えられない。
答えたくない。
でも、答えはわかっている。
「……消えるのか」
自分の声が、やけに遠く聞こえた。
ヨミは、ほんの少しだけ目を細めた。
「誰が?」
その問いは、残酷だった。
俺は、何も言えない。
ヨミは、ゆっくりと手を伸ばす。
指先が、俺のシャツのすぐ手前で止まる。
触れていない。
でも、触れる寸前。
「怖い?」
「……ああ」
即答だった。
嘘をつく余裕なんてなかった。
ヨミは、少しだけ嬉しそうに笑う。
「よかった」
「……何が」
「お兄ちゃんが、ちゃんと怖がってくれて」
その言葉の意味を、理解するまでに少し時間がかかった。
「私ね」
ヨミの指先が、わずかに震える。
「自分が、何なのかわからなくなってる」
触れたいのか。
触れてはいけないのか。
「でも——」
ほんの一瞬、迷いが消える。
「それでも、好きなんだ」
その瞬間、距離がゼロになる。
触れた。
——はずだった。
でも。
何も起きない。
世界は、そのままだった。
教室も、夕焼けも、風も。
消えない。
壊れない。
ただ、ヨミの手の温度だけが、確かにあった。
「……あれ」
ヨミが小さく呟く。
「消えない」
俺も、息を止めたまま確認する。
何も変わっていない。
「どうして……」
ヨミの声が、揺れる。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……まだ、足りないのか」
言ってから、後悔する。
でも、ヨミはその言葉を否定しなかった。
むしろ。
「そっか」
静かに、納得したみたいに言う。
「じゃあ——」
ヨミは、手を離さない。
そのまま、少しだけ強く握る。
「もっと好きになったら、わかるね」
その笑顔は、危うかった。
でも同時に、
どこまでもまっすぐだった。
逃げられない。
逃げたくない。
その両方が、同時に存在していた。
教室の外で、部活の声が遠くに聞こえる。
現実は、ちゃんと続いている。
でも。
この教室の中だけ、
少しだけ違う法則で動いている気がした。
「帰るか」
俺が言う。
ヨミは、少しだけ考えてから、
「うん」
と答えた。
でも、手は離さなかった。
⸻
帰り道。
夕焼けの中で、
俺たちは並んで歩く。
手をつないだまま。
誰にも見られていないはずなのに、
妙に意識する。
「ねえ」
ヨミが言う。
「今日のこと、誰にも言わないでね」
「ああ」
「だって——」
少しだけ、間を置いて。
「知られたら、消えちゃうかもしれないでしょ?」
冗談みたいに言う。
でも、冗談じゃない。
俺は、ただ頷く。
ヨミは満足そうに笑った。
「大丈夫」
夕焼けの中で、その横顔が少しだけ赤くなる。
「お兄ちゃんだけいればいいから」
その言葉は、優しかった。
でも同時に、どこか壊れていた。
風が吹く。
街の音が、遠くで鳴っている。
世界は普通に続いている。
でも。
俺たちの間だけ、
少しずつ、何かが削れていく気がした。




