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第4話 距離がゼロになる

 観測では、守れない。


 それが分かった時点で、やることは一つしかなかった。


 ——やめる。


 ノートを閉じる。


 観測記録と書いた表紙を、しばらく見つめてから、机の奥に押し込んだ。


 意味がないわけじゃない。


 だが、足りない。


 決定的に。


「……はあ」


 息が漏れる。


 教室には、もうほとんど人がいない。


 いや。


 “最初から少なかった”ことになっている。


 その違和感すら、少しずつ薄れてきているのが分かる。


 まずい。


 これは、まずい。


「お兄ちゃん」


 声がした。


 振り向く前に、分かる。


 背中に、重み。


 いつの間にか、ヨミが抱きついている。


「……なんだ」


「つかれた?」


「……まあな」


「ヨミも」


 腕が回される。


 離れない。


 強くもないのに、外せない。


「どうして?」


「なんでもない」


「うそ」


 ヨミは言う。


「お兄ちゃん、さっきから他ばっかり見てる」


 心臓が一つ、強く鳴る。


「見てない」


「見てた」


 否定できない。


 見ていた。


 必死に。


 他人を。


「どうして?」


「必要だからだ」


「必要ないよ」


 ヨミは即答する。


「いらない」


「いる」


「いらない」


 言葉がぶつかる。


 だが。


 力の差は、明らかだ。


「お兄ちゃん」


「……なんだ」


「ねえ」


 ヨミが、回り込む。


 正面に立つ。


 距離が近い。


 近すぎる。


「こっち見て」


 視線が合う。


 逸らせない。


 やはりだ。


 ヨミだけが、はっきり見える。


 他はぼやける。


 意識しないと、存在が保てない。


「……なんだよ」


「ヨミだけ見て」


 柔らかい声。


 命令でもない。


 お願いでもない。


 ただの事実みたいに言う。


「それでいいよ」


「よくない」


「どうして?」


「他が消える」


「消えないよ」


「消えた」


「見えなくなっただけ」


「同じだ」


「違うよ」


 ヨミは首をかしげる。


「だって」


 一拍。


「お兄ちゃんが見てないだけだから」


 その言い方は、ずるい。


 責任が、こちらに来る。


「……違う」


「違わないよ」


 ヨミは一歩近づく。


 距離が、さらに縮む。


 触れそうで、触れる。


 逃げ場がない。


「ねえ」


「……なんだ」


「さっきの人」


 嫌な予感がした。


「お兄ちゃんのこと、見てたよね」


 その一言で、理解する。


 理由だ。


「……だからか」


「うん」


 ヨミは頷く。


 あっさりと。


「いやだった」


 それだけ。


 それだけで。


 人が消える。


「……ふざけるな」


 思わず言う。


 ヨミは少しだけ驚いた顔をする。


「どうして?」


「そんな理由で」


「理由じゃないよ」


「同じだ」


「違うよ」


 ヨミは首を振る。


「お兄ちゃんだから」


 それは説明になっていない。


 だが。


 こいつの中では、それで完結している。


「お兄ちゃん」


「……なんだ」


「見ていいのは、ヨミだけだよ」


 はっきりと言った。


 初めてだ。


 ここまで明確に。


「他はいらない」


 空気が変わる。


 軽くなる。


 いや。


 削れている。


 何かが。


 少しずつ。


「……やめろ」


「どうして?」


「それ以上やるな」


「なにもしてないよ」


「してる」


「してない」


 ヨミは笑う。


 やさしく。


「ただね」


 一拍。


「はっきりさせてるだけ」


 その言葉は、もう聞き飽きた。


 だが。


 否定できない。


「お兄ちゃん」


「……なんだ」


「ねえ」


 ヨミが、手を伸ばす。


 俺の手を取る。


 指を絡める。


 逃げられない。


「ここにいて」


「いる」


「ずっと」


「……」


「ヨミの近くに」


 答えない。


 答えた瞬間、何かが決まる気がする。


「ねえ」


「……なんだ」


「他、見ないで」


 静かな声。


 だが、重い。


 拒否できない重さ。


「……無理だ」


「どうして?」


「全部消える」


「消えないよ」


「消える」


「消えない」


 繰り返し。


 だが。


 どちらが正しいかは、もう分かっている。


「……くそ」


 目を逸らす。


 教室を見る。


 人がいる。


 いるはずだ。


 だが。


 数が、少ない。


 明らかに。


 さっきより。


「ねえ」


 ヨミの声。


 すぐ隣。


「お兄ちゃん」


「……なんだ」


「まだ分からない?」


 何がだ。


 そんな顔をする。


 最初から答えを知っているみたいに。


「世界じゃないよ」


 ヨミは言う。


「ヨミだよ」


 その言葉で、ようやく理解する。


 これは。


 世界の問題じゃない。


 現象でもない。


 こいつだ。


「……お前がやってるのか」


「うん?」


「全部」


 ヨミは少し考える。


 そして。


「わかんない」


 と答えた。


「でも」


 一拍。


「お兄ちゃんがいればいいのは、ほんと」


 そこだけは、迷いがない。


 確定している。


「だから」


 ヨミは笑う。


「いらないの、なくなるよ」


 それは予告だった。


 脅しじゃない。


 当然の結果としての。


「……やめろ」


「どうして?」


「残せ」


「なにを?」


「他人を」


 ヨミは、少しだけ考える。


 本当に、少しだけ。


「やだ」


 即答だった。


「どうして?」


「じゃまだから」


 その言葉が。


 あまりにも軽くて。


 あまりにも重かった。


「お兄ちゃん」


「……なんだ」


「ねえ」


 ヨミが、さらに近づく。


 もう、ほとんど重なっている。


「ちゃんと見て」


 逃げられない。


「ヨミを」


 視界が埋まる。


 他が消える。


 世界が狭まる。


「それでいいよ」


 やさしい声。


「それが、正しいから」


 違う。


 だが。


 否定する言葉が出てこない。


 理屈では勝てない。


 観測でも勝てない。


 残っているのは——


 関係だけだ。


「……離れろ」


「やだ」


 ヨミは首を振る。


「ここがいい」


 腕が、強くなる。


 離さない。


「お兄ちゃん」


「……なんだ」


「どこにも行かないで」


 その声だけが。


 少しだけ、不安を含んでいた。


「……」


 答えない。


 答えられない。


「ねえ」


「……なんだ」


「約束して」


 ヨミは言う。


「ヨミから、目を離さないって」


 それは。


 この世界を終わらせる約束だ。


「……できない」


「どうして?」


「全部消える」


「消えないよ」


「消える」


「消えない」


 同じやり取り。


 だが。


 距離は、もう戻らない。


「お兄ちゃん」


「……なんだ」


「じゃあ」


 一拍。


「ヨミが消すね」


 静かに言った。


 その意味は、もう分かる。


「……やめろ」


「どうして?」


「それ以上やるな」


「なにもしてないよ」


「するな」


 ヨミは、少しだけ笑う。


「大丈夫」


「何がだ」


「ちゃんと、二人になるだけだから」


 それは。


 最初に聞いた言葉と、同じだった。


 だが今は、意味が違う。


 より具体的で。


 より現実的で。


 逃げ場がない。


 チャイムが鳴る。


 教室が動く。


 何も変わっていないみたいに。


 だが俺は知っている。


 これはもう。


 現象でも、仮説でもない。


 関係だ。


 この妹との。


 距離がゼロになるほど。


 世界が消える。

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