第2話 観測の証明
その日、俺は“実験”をすることにした。
観測で世界が変わるなら、観測で世界を守れるはずだ。
——理屈は単純だ。
ヨミの観測が優先される。
なら、俺の観測を強くすればいい。
他人を見て、名前を呼び、存在を確定させる。
それで維持できるかどうか。
やるしかない。
「お兄ちゃん?」
隣から声がする。
ヨミが、俺の顔を覗き込んでいた。
いつの間にか、膝の上に戻っている。
当然みたいに。
「……降りろ」
「いや」
「だからなんでだよ」
「ここがいい」
ヨミは俺の制服をつまむ。
離れる気配がない。
呼吸が近い。
視線も近い。
逃げ場がない。
「お兄ちゃん、さっきから変だよ?」
「……そうかもな」
「どうしたの?」
ヨミは首をかしげる。
無邪気な顔。
だが、その奥にある“収束”は消えていない。
「少し、試す」
「ためす?」
「ああ」
俺は前を見る。
浅井がいる。
——はずだ。
「浅井」
名前を呼ぶ。
顔を見る。
目を逸らさない。
輪郭を追う。
鼻筋。目の形。髪の流れ。
記憶に固定する。
「……なに?」
浅井が振り返る。
よかった。
まだいる。
「今、何時だ?」
「は? 九時前だけど」
「そうか」
声も確認する。
存在している。
俺が観測している限り。
「お兄ちゃん」
ヨミの声が近づく。
「その人、なに?」
「……クラスメイトだ」
「へえ」
ヨミは浅井を見る。
だが、その視線は“通り過ぎる”。
捉えていない。
風景として処理しているだけだ。
「ぼんやりしてる」
やはりそうだ。
ヨミは他人を認識できない。
——なら、俺がやる。
「浅井」
「なんだよさっきから」
「そこにいろ」
「意味わかんねえよ」
だがいい。
会話は成立している。
観測は続いている。
維持できる。
——はずだ。
「お兄ちゃん」
ヨミが、少しだけ声を低くした。
「見て」
「見てる」
「違う」
ヨミは俺の頬に手を伸ばす。
触れる。
強制的に視線を引き戻す。
「こっち」
目が合う。
逸らせない。
焦点が固定される。
ヨミだけが、異様に鮮明になる。
「……やめろ」
「どうして?」
「他も見る」
「どうして?」
「必要だからだ」
「必要ないよ」
ヨミは言う。
当たり前みたいに。
「お兄ちゃんが見れば、それでいい」
違う。
それじゃダメだ。
それでは——収束する。
「浅井」
もう一度呼ぶ。
だが。
返事がない。
振り返る。
そこに、浅井は——
いた。
……いる。
だが。
輪郭が、薄い。
さっきよりも。
確実に。
「……おい」
近づく。
肩に手を伸ばす。
触れる。
感触はある。
だが、現実感が弱い。
「浅井、聞こえるか?」
「なに……?」
声が遠い。
音量じゃない。
存在の密度が、薄い。
「ヨミ」
「なに?」
「見るな」
「どうして?」
「見るな」
強く言う。
だがヨミは首をかしげるだけだ。
「見てないよ?」
「嘘だ」
「ほんとだよ」
ヨミは微笑む。
その顔だけが、世界で一番はっきりしている。
「ただね」
一拍。
「お兄ちゃんが見てないから、ぼやけてるだけ」
理解する。
俺の観測が弱まった瞬間。
他者の存在は、維持できない。
つまり。
ヨミの観測だけが強いわけじゃない。
——俺の観測も、競合している。
「……そういうことか」
「なにが?」
「お前と俺で、取り合ってる」
「とりあってる?」
「現実を」
ヨミは少し考える。
そして。
「うん」
と頷いた。
「たぶんそう」
軽い。
あまりにも軽く、世界の話をする。
「どっちが強いの?」
「……知らない」
「じゃあ試す?」
ヨミが笑う。
その瞬間、嫌な予感がした。
「やめろ」
「どうして?」
「これ以上減らすな」
「減らしてないよ」
ヨミは言う。
「ただ、はっきりさせてるだけ」
視線が、こちらに集中する。
圧が増す。
観測が、絞られる。
「お兄ちゃん」
「……なんだ」
「ちゃんと見て」
「見てる」
「もっと」
ヨミの顔が近づく。
距離がゼロになる。
他が消える。
視界の周辺が、薄くなる。
「お兄ちゃんだけ、見て」
その瞬間。
浅井の姿が——
消えた。
音もなく。
違和感すら残さず。
ただ、“そこにいなかったこと”になる。
机がある。
椅子がある。
だが。
そこに座っていたはずの人間は、最初から存在しなかった。
「……二人目」
ヨミが呟く。
「やめろ……」
「どうして?」
「今、いた」
「いなかったよ」
ヨミは当然のように言う。
「最初から」
世界が、そう言っている。
名簿も、記録も、全部そうなっている。
俺の記憶だけが、異物だ。
「……クソ」
息が荒くなる。
これは。
競合だ。
観測の競合。
そして——
負けた。
今のは、完全に。
「お兄ちゃん」
「……なんだ」
「どっちが強いか、わかったね」
ヨミは笑う。
やさしく。
確信を持って。
「ヨミだよ」
否定できない。
さっき、証明された。
俺の観測は、上書きされる。
「でもね」
ヨミは少しだけ考えてから言う。
「お兄ちゃんが見てくれれば、消えないよ」
「……なんだって?」
「だから」
ヨミは俺の手を取る。
「ずっと見てて」
その言葉の意味が、分かる。
俺が観測し続ければ、世界は維持される。
だが。
それは同時に——
俺がヨミから目を逸らせなくなるということだ。
「ねえ」
「……なんだ」
「どっちにする?」
ヨミは聞く。
「みんなを見るか」
一拍。
「ヨミを見るか」
その二択は。
すでに答えになっていない。
どちらを選んでも、誰かが消える。
だから。
まだ、選ばない。
「……両方だ」
俺は言う。
「両方見る」
ヨミは少しだけ驚いた顔をした。
そして。
くすっと笑う。
「むずかしいね」
「ああ」
「でも」
ヨミは頷く。
「いいよ」
その言い方が、妙にやさしかった。
「できるなら」
チャイムが鳴る。
教室が動き出す。
何もなかったみたいに。
だが。
俺は知っている。
これは“証明”された。
この世界は。
観測で壊れる。




