『血みどろ男爵のダイナマイトチェーンソー』
暗い屋上で夜風に吹かれながら、男三人でトマトを液体にしていく。時和が洗い、俺が切り、小林がミキサーだ。ライトを点けるとバレるので、月の明かりと出店の明かりを頼りに作業を進めていくしかない。まな板の音と向き合って、時々衣装の血糊とトマトが混ざりながら黙々と包丁を振るった。
「藤咲、お前さ、衣装汚れるし上脱いだら?トマト汁かかってるじゃん。」
「血糊と混ざっていいかなって思ったんだけど。」
「明日、匂うぞ?」
「まあ、今日洗濯機と乾燥機にかけとくよ。」
「洗濯は駄目だよ。血糊流れちゃう。」
「あ、そうか。」
「だから、ドライヤーだけかけといてよ。」
「分かった。」
秋も深くなり、夜ともなると涼しさを超えて寒さすら感じるが、これ以上衣装を汚すわけにはいかないので、上着を脱いでシャツ一枚だけになる。その際、捲れあがって汗で張り付き、月の明かりの下に下腹部の傷が露わになった。
「そういえばさ。」
小林が俺の傷を見て、純粋な目をまっすぐに向けて言葉を発した。
「傷があることは分かったけど、一体どうして、誰がそんなことをしたの?」
「お、おい小林……。あ、そ、そうだ。お前この間の映画はどうだったんだよ。最上さんと行ったんだろ?お前さ、本当に血みどろ男爵が好きだよな。どこが好きなんだよ?」
俺のシャツを脱ぐ手が止まったのは寒さのせいだけではない。また、自分の体が微かに震え始めたのも、そのせいでは無かった。小林は囃し立てるような奴ではない。また、この話を聞いて逃げていく奴でもない。
乱れる呼吸を整えて空を見上げた。手がひどく冷たい。自分を守るものがないこの場所は、風がひっきりなしに吹いていた。
俺はただ怖いのだ。誰も得しなかったこの話を思い出すのも、今までしなかった話をすることで同情をされるのも。
「なんだ、貴様。ぶるっているのか?」
耳の奥で聞きなれた声がする。
「怖いよなあ。自分のしたことを自分で受け入れるっていうのは。受け入れることのないまま、耳を塞いで、自堕落に逃げて生きるのは楽だもんなあ。」
「誰だ。お前は。」
頭の中に問いかける。
「俺だよ、俺。」
はっとして辺りを見回すと、月の光が俺に当たって床にできる黒い影に、俺ははっきりと血みどろ男爵を見た。
「言って楽になるんじゃない。言って始めようぜ。分け隔てのない友情と、錆びついて止まった人生をよ。」
全く男爵の言うとおりだ。床に視線を向けていたのを小林に向ける。小林は俺を見据えて。時和は俺に怯えて俺を見ていた。自分でも声が低くなっているのが分かる。俺は一呼吸おいて話し始めた。
当時、男爵は十八歳でね。爵位について早三年。不満は無いが、楽しい生活を送っていた。
「おーい、男爵。」
「なんだよ時和。」
「俺たちもさ、とうとう三年だぜ。どうする?ねえ。」
「別にどうもしないよ。いつもの通り過ごすだけだよ。」
「そうか。男爵らしいね。あ、そうだ。今日映画借りて帰るけど、うちに観に来ない?」
「何借りるんだよ。」
「なんか、血がいっぱい出るのがいいな。」
「好きだな、時和そういうの。」
「うん!」
十八歳という年齢であるから、多分に漏れず、多少なりともの好意を持つ女性がいた。自分と同じ年齢だったんだけれども爵位カーストでは上のまた上。到底手の届く相手ではなかったんだ。
「なるほど。それが男爵にとっての大切な人だったと。」
小林が興味深そうに聞いている。時和は小林を制止するのをやめて、俺の影に視線を落としている。
「そうなんだよ。」
彼女は当時、俺たちみたいなのをまとめる最高責任者の立場にあった。激務でありながらも容姿端麗で文武両道を保っていた。俺は彼女を想って夜な夜なポエムを書く毎日。いつか自分はあの人と。と思う反面、遠くから見ているだけで十分だった。
そのような人物だから、彼女に好意を寄せる輩は数多くいたんだ。作中で語られる敵の博士もその一人で、彼女の気を引くためなら何でもする奴だった。例えば手品。トランプはもちろん、コインの出現マジックも得意だった。
「ごきげんよう、姫。」
「ごきげんよう、博士。」
「今日は面白いものを見せに参りました。」
「あら、楽しみね。最近はあなたの奇術が楽しみなのよ。」
「光栄です。本日は不思議な、瞬間移動をする銀貨を持って参りました。」
「それは不思議ね。早速見たいわ。」
最上さんがこう言ったのを合図に、周囲に人だかりができていく。といっても、周囲の人だかりは手品自体には興味が無くて、彼女の驚く顔を見たいと思って集まったのだが。
俺はといえば、その人だかりに混じって彼の技術に臍を噛み、彼女の笑顔に癒されるしか無かった。
またある時は彼女がお菓子を作るのに興味を示し、そのための器具を揃える。そして出来たクッキーやケーキを彼女の取り巻きの女子にも振る舞い、着実に外堀を埋めていった。
「本日は姫のために、わたくし、色々な種類のお菓子を取り揃えました。」
「あら、楽しみだわ。私、お菓子に目が無いの。」
博士が指を鳴らすと、彼のお付きの人がワゴンを運んでくる。ワゴンにはこれでもかとお菓子が乗っていた。
「こちらから、ショートケーキに舌触りのいいドーナツ、レモン味のマドレーヌ。チョコレートのクッキーに熱めのカラメルソースのプディング。バームクーヘン、ロールケーキ、ガレット・デ・ロア。他にも取り揃えておりますよ。」
「こんなに食べられないわ。」
「それでは、御友人も一緒にどうぞ。甘さを流したければ、紅茶をどうぞ。インドから取り寄せたダージリン・ティーを用意させて頂いております。」
彼女は幸せそうだった。
「しかしな、小林。そうやって彼女の気を引くだけでは彼女とは付き合えなかったんだ。」
「どうしてさ?」
月はますます冷たい光を発して俺を照らしていた。懸命に聞かなければならないと思ったのだろうか。小林は屋上の床に正座をしてじっと聞いている。時和もその横で小林に倣って正座をしているが、体はじっと硬直している。
「それはな、周囲の目だよ。」
「周囲の目?」
「そうだ。正確には彼女のファン。男も女も誰もがお互いを牽制し合い、足を引っ張り合った。」
「抜け駆け禁止ってやつだね。」
「ああ。」
もちろん、心底自分のものにしたい博士にとっては面白くない。しかし、彼女の気を引く以上にそれは難しい問題だった。何せ、ファンによっては女神と揶揄されている存在。神を巡る争いは激しくなることを、彼は知っていた。
しかし、彼はカースト的には下の下の男爵位。そんな下々の者でも彼女を笑顔にできるならと、上位の爵位を持ち、体の屈強な運動神経の良い人々に彼女にお目通りをすることを許されていたが、交際を申し込むなら話は別。申し込めばたちまち暴力を振るわれ、振るわれた事実を握りつぶされ、冤罪をでっち上げられて国を追われることになるだろう。
そこで彼は考えた。
「そうだ!自分が女神と同格になればいいんだ!」
誰もが羨む女神と、誰もが崇める神。きっと皆に認められるだろう。彼は真っ当な手段で神になることにした。
初めに手をつけたのは、上位カーストとのコネクションである。彼らが入会しているサークルに入って、認められよう。そう考えた彼はクリケット的な球技を行う会に入会し、一生懸命に泥にまみれて練習した。
「さーこーい!」
「いくぞ!オラッ!」
木製の棒に球が当てられて彼が追いかけて捕る。楽しいとは思わなかったが、これも彼女と交際をするため。そう自分に言い聞かせた。
もちろん、勉学も怠らなかった。積極的に学び、より良い成績を上げていく。またあるときは、絵画を愛する人たちとの写生大会。ありとあらゆる層と交流を重ね、下品にパイプを吸う層にまで信頼を得たんだ。
「そうやって、博士が周りに認められようと死ぬ気で頑張っているその頃、血みどろ男爵はどうしてたの?」
「……彼はね、姫と会っていたんだ。」
城の裏庭には紫陽花が咲いていた。様々な色がキャンバスに、水に溶かした絵の具を一滴ずつ垂らしたように淡く咲き乱れ、その中央には木の板を何枚も繋いで曲がりくねった道を作っている。
ここには誰もが利用できるように開放されているものの、普段利用している人はいない。だから、この場所は俺専用の休憩所だと、そう勝手にいい気になってはたまに訪れていた。
「あら、ここに来る人なんていたのね。」
辺りを見回すが誰もいない。どうやら紫陽花が咲き乱れる中にひっそりと咲くジンジャーの影に座り込んでいたらしい。姿を探すのをあきらめた視線の先で、すっくと立つ者がいた。最上さんだった。彼女は正装の白いドレスをしなやかに着こなし、被る帽子は淡い青のレースが編まれていた。
「ええ。たまに来るんです。あ、初めまして。」
「ええ。初めまして。」
彼女は、目に光を灯し俺を見つめた。彼女の背後には太陽が後光のように光り輝いている。それが俺たちの出会いだった。
「どうされたんですか?姫。こんなところで油を売って。」
「私を知っているのね。」
「もちろん。今をときめく生徒会長じゃないですか。」
彼女は驚いた顔を見せ、すぐに気さくな顔に戻り、思いつめた目をした。
「どうしたんですか?何か悩みごとでも?」
「ええ。少しね。」
「私で良ければお話聞きますが。」
「そう?それじゃ少しだけ。実は……。」
思えば、いつも彼女にくっついていた友人が一人もいないことが妙なことだった。彼女が言うことには、なんでも最近自分の周りから人が少なくなってしまったらしい。今までは自分の周りに男女問わず、いつも誰かが居てくれたのだが、最近何故か一人になることが多いらしい。俺はもちろん理由を知っていた。博士の方に集まっていたからだ。しかし、俺の口から言っていいことなのか分からずに何も言いだせなかった。
「一通り聞いてくれてありがとう。なんだかすっきりしたわ。頼りになるのね。」
「いえいえ。こんなことで良ければ、いつでも。」
「また会えるかしら?」
「あなたがお望みの時に。」
「あら、嬉しいわ。そういえば、あなたはこんなところで何を?」
「ちょっと、ジンジャーの花言葉を思い出していたところです。私、忘れてしまって。姫、御存じですか?」
「私も知らないわ。今度、調べておくわね。」
彼女は去り際に手を振ってくれて、俺はそれを見送った。
「なるほどね、親切なやつだな。男爵は。」
「そうかもな。」
「いいね、和やかで。」
「そう思うか?小林。」
「え、もちろん。」
「ところが、そう上手くはいかない。」
「え?」
「見られてたんだ。博士に。距離から考えて会話までは把握できなかったんだろう。」
男爵は姫が去っていくその先で、博士が走っていく後姿を目で捉えた。
誰だ、姫と一緒にいたあの男は。彼は走りながら考えた。自分がこんなにも頑張っている間に、他の男と……いや、姫がそんな、ふしだらではないはず。いや、しかし……
彼の心に欺瞞が芽生えた。その芽が大きくなるのに時間はかからなかった。人ごみを通り過ぎるときに声をかけられる。
「あ、博士君、ごめんね?私これからデートがあって。この仕事やっておいてくれない?」
「あ、分かりました。」
「あのさあ、お茶がないんだけど。」
「おう、博士、悪いんだけどさ、宿題見せろよ。」
「いや、それは自分で……?」
「何?尊敬されたいんじゃねえのかよ?」
「いえ、なんでもありません。」
おかしい。私はこんな状況を望んだのだろうか。こんな、頭の中が腐った土でできているような連中に。こんな、枯れ葉に群れるミミズみたいな連中にこき使われる状況を。
いや、違うはずだ。私はもっと明らかに幸せな未来を掴んでいたはずだ。誰にも邪魔されず、皆に祝福されるようなそんな未来を。なぜだ。何故、私は頑張るほどに虐げられ、姫は楽しげに男と生きているのか。……駄目だ。間違っても、彼女の幸せを疑ってはいけない。駄目だな、私は。
雨がしとしとと降り始めた。鞄の中から傘を取り出し、開いて雨を凌ぐ。と、向かいから急いで走ってくる者がいた。姫である。
「どうされたんです?こんな雨の中。」
「あら、お久しぶり。元気だったかしら。」
「……ええ。なんとか。で、どこへ?お供いたしましょうか。」
「結構です。私、あの方のもとへ急いでおりますので。」
「あの方とは?」
「先ほど裏庭でお会いした方です。ちょっと、ぼーっとした雰囲気の方だったので、もしかすると雨の中で立ち往生しているのではないかと。」
「それで傘を届けるので?」
「ええ。」
「私が持って行きましょうか?」
「自分で持っていきたいんです。それにあなた、顔も知らないのに届けられないでしょう?」
「……そうですね。ではお気をつけて。」
「どうもありがとう。では、急いでいますので。」
本降りになった雨の中、石畳の道を彼女は走っていった。
彼の心に、ヤニとタールにまみれた黒い煙のような感情が心に溜まっていく。ああ、そうだ。信頼を得ようとするのが間違いなんだ。自分の目的を達成させるためには他者を服従をさせればいいんだ。そのためには……。彼は博士という地位を存分に利用し、発明と実験を始めた。
実験は成功だった。彼は、望むものを手に入れたんだ。
夕暮れ。俺と時和は一日の予定が終わり、一緒に帰路につこうとした。
「ねえ、男爵。なんだか、最近静かじゃないか?」
「何がだよ?時和。」
「学校がさ。やけに静かだなって思って。」
「静かなことはいいことじゃないか。」
「何かの前触れでなければいいんけど。」
「ビビりだな。」
「ビビってねーし。ビビってねーし。」
靴を出そうと下駄箱を開けると、一枚の手紙が入っていた。中を開けると、白地に赤い字で文字が書かれている。
「何それ、まさか、ラブレター?」
「違う。……果たし状だな、これ。」
「何て書いてあんの?」
「今から屋上に来いだと。誰が行くかよ、こんなの。帰ろうぜ。」
手紙を破ろうとしたとき、どこからか甲高い悲鳴が聞こえてきた。聞き覚えのある声だ。
「おい、男爵、今の……。」
俺は、声を振り切って、城の屋上に向かって駆けあがった。息を切らして屋上のドアを開けると、大勢の目が俺を出迎える。
「待ってたよ。」
「博士!」
「どうやら、姫は私じゃなくて君にご執心のようだ。だから、彼女の前で君を洗脳し、こちらの陣営に下ってもらおうと思ってね。」
彼の足もとにはヘッドホンに目隠しをさせられて、猿轡と体も拘束された姫が転がっていた。いくらか暴れたのか、彼女の胸は上下し、頬や脛に暴行の痣が垣間見える。
「……まさか、殴ったのか?」
博士は姫の頬の傷に優しく触れて言った。
「ああ、殴った。蹴った。自分の思い通りにならないからね。でも、私は殴ってないよ?皆に殴らせたんだ。」
男だけでなく、女も取り巻きの集団に混じっている。彼らの目に生気は無く、どこか遠くを見ていて、不気味に思った。婦女暴行しておいて、顔色一つ変えないなんて……。時和の方をちらりとみると、憤怒と恐怖に顔を赤くしたり青くしたりしていた。
「怒ったかい?それはいい。頭にすぐ血が上る連中をちょっとぶん殴ってやると、すぐ人に従順になる。さあ、もっと怒ってもらおう。やれ!」
自分の後ろで鈍い音がして時和がくぐもった声を出した。振り返ると、時和の鼻から血が噴き出している。殴られたのか!
「おい、貴様!許さんぞ!」
「許されないのはどちらかな?人の女を誑かそうとした男と、それに天誅を与えた男。どっちを世間は応援するだろうね。」
自分の視界が怒りで狭くなり、沸々と心が煮えたぎる。感情が理性を超えて、手をむやみやたらに打ちおろした。沢山人はいるから、誰かには当たる。男も女も関係なく、そもそも区別もつかずに手当たり次第にお腹を、背中を、鼻を、足を殴って蹴った。もちろん相手の攻撃もよく当たる。痛みは無いが、体への衝撃は分かる。お腹を蹴られたのか息が苦しく、口の中は鉄の味がする。鼻からは温かい何かが止めどなく流れ、服を濡らしていた。
手が空振りするようになって、はっと気付くと、周りに人が沢山倒れていた。残りは数人と、博士を残すのみである。
「ふん。体力を削る位は役に立ったか。」
近くの男の顔を踏みつけて言った。
「まあいい。君は碌に動けないだろう。そこで彼女が洗脳されるのをそこで見ていたまえ。」
彼は、残った数人に指示を出し、葉っぱを取り出した後に側近の鼻先に持って行った。残った数人は顔に多幸感を滲ませ、姫の両手を捕まえて動かないように押さえた。その後、別に取り出した機械を操作してボタンを押す。
「さあ、さあさあさあ!これで洗脳は終わった!彼女は陥落した。これで彼女は俺のものだ!さあ、俺に跪け。そして永遠の愛を俺へのキスで示せ!」
彼女は動かない。機械を操作して出力を上げるも動じなかった。頭を蹴って、怒りを表す。
「かくなる上は!」
博士が右手を挙げると、次の瞬間には何かが現れて、握られた。夕日に反射してギラリと光るそれはナイフだった。
「出現マジックは得意でね。彼女のために覚えたんだよ。」
俺は唾を飲み込んだ。手が微かに震える。
「私の思い通りにならない奴は死んでしまえばいい。死人こそ私に反しない。彼女の死体に私の血を一滴垂らし、未来永劫、血の契りを結ぼうじゃないか。」
彼はナイフを振り上げる。そして、一直線に彼女へ振りおろした。彼女の首筋に刃が当たる直前、俺は叫んだ。
「最上さん!」
彼女はヘッドホンをさせられているにも関わらず、紙一重にそれを転がって交わした。鋭い金属音が、屋上の床に響き渡る。博士が立ち上がるまでの数秒は、俺が駆け寄るのに十分な時間だった。
彼の眉間に右の拳を叩き込む。よろけるものの、気を失わせるほどまでは行かなかったらしい。満身創痍の俺が打つパンチは弱かった。博士はナイフを握り直し、俺の方へ向かってくる。
ゆっくりと、自分が洗脳した者を踏みしめて近づいてくる。左手にはナイフ。俺は息も絶え絶えに、彼の動作を見ることしかできず、ナイフをかわすのに反応が大分遅れた。大きくナイフを後ろに引き、右手を添えて俺の右の下腹部に突き刺した。倒れている時和の目が大きく開いた気がした。刺した時には鋭い痛みが。抜いた時には鈍い痛みが全身を駆け巡る。右手で傷を抑えても、後から後から温かいものが溢れだしてきた。博士は自分の行いと結果に満足し、彼女の方に向き直る。ああ、次は彼女の番か。声をかけたくとも声は出ず、ただぱくぱくと唇が動くに過ぎない。今度こそと再びナイフを振りかぶったとき、彼女は何かを叫んだ。猿轡をしているのでもちろん意味は聞き取れない。しかし、それは再び俺を正気に返らせた。
俺は博士を後ろから殴りつけ、ナイフを蹴って飛ばす。
「これで終わりだ!」
振り返った彼の顎を殴り、洗脳のための機械を脳天にぶつけて、それが相手の意識を奪った。
敵の大将が敗れて、洗脳が解けた生き残りも全員気を失った。
これで、終わったんだ。終わりなんだ。……いや、釈然としない。不公平だ。これで終わりにして良いのか?黒い感情が俺の心に湧いてくる。それは憎悪の炎となって、俺の心を蝕んだ。俺は彼の襟首を掴んで、フェンスの方へと引っ張っていく。意識を取り戻したのか、遠くから時和に声をかけられる。
「お……おい、何やってんだ。何をやろうとしてんだよ!ここ、四階だぞ?それやったら、お前も犯罪者になるんだぞ。同類だぞ!分かってるのか?俺たちは勝った。それでいいじゃねえか。友達だろ?友達の言うこと聞いてくれよ。なあ、俺が今から先生を呼んでくるからよ、お前、そこで待ってろよ。だからな?……止めろ!藤咲!」
俺は彼の言葉を意図的に無視した。重い博士の体を持ち上げてフェンスを乗り越えさせ、そして……突き落とした。




