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Ginger Yell  作者: エリス計画
16/32

夏風邪

 人間の世界には強い精神力を持たねば跳ねのけられない物が山ほどある。我々は日々多くの物に魅惑され、屈し、廃人となる。中には合法のものも非合法のものもある中で、一番跳ねのけられないのは真夏日の冷房である。

 俺も一般大衆と同じく、意志は薄弱なほうだ。冷蔵庫に美味しいプディングがあると聞けば明日まで我慢はできないし、あまりにも眠たければつい授業中でも、うとうとする。そんな俺が体温と変わらない気温の中で、冷房の温度を十八度に設定するのは当然のことであった。


「だから風邪ひくのよ。お兄ちゃん。」


 夏なのに、分厚い掛け布団をかけられて身悶えしている俺を、心底馬鹿にして妹は言う。


「夏風邪は馬鹿しかひかないんだって。知ってた?」

「知らない。」

「ほら、汗拭くから、身体起こして?」

「うう。」


 だるい身体を妹に支えられつつ起きあがる。布団の中よりいくらか涼しい部屋の空気にさらされて、自分がいかに汗をかいているのかに気がついた。


「はい、ばんざーい。」


 妹の言葉に素直に従って服を脱がされる。何度もの洗濯を経て、ごわごわになったハンドタオルで拭かれてようやく快適になった。


「はい、おじいちゃん。シャツ着ましょうね。」


 介護かよと声を荒げたかったが、そんな気力もない。全ては俺の意志の弱さのせいなのだ。言われるがままにしておこう。


「んー。まだまだ熱があるみたいね。体温計はさんでおきなね。」

「分かった。」

「夜までに熱下げなかったら、座薬詰めるからね。私が。」

「冷房でガンガン冷やしたら、熱下がらないかな。」

「馬鹿じゃないの?」

「ごめんなさい。」


 体温計の軽い電子音が鳴った。数値を見ると、三十八度五分である。夜までに下がるだろうか。


「何か要るなら、お母さんにメールしとくけど。」

「プディング食べたい。」

「はいはい。プリンね。」


 そう言って、部屋を出ていった。感覚が過敏になっているのは風邪だからだろうか。いつもは気にならない静けさが俺を襲う。外に鳴く、種類の分からない蝉の声。閉め切っているはずの部屋に吹く謎の風。妹は静かに過ごしているはずなのに、どこからか聞こえる家の音。そのどれもが俺を孤独にさせた。

 あまりの孤独さに、妹に座薬を詰められるのも良いかもしれないと血迷っていると、チャイムが鳴った。

 妹に連れられて、部屋に入って来たのは時和だった。


「メール返さねえと思ったら、風邪ひいてんのかよ。」

「ああ。」


 千穂は、俺の額に貼っていた冷却シートを交換すると、さっさと出ていった。


「夏風邪は馬鹿しかひかないっていうけど。」

「もう、妹に言われた。それ。」

「ああ、そう。」

「夜までに熱下がらないと、妹に座薬入れられるんだけど。」

「いいじゃねえか。入れてもらえ。」

「やだ。」


 時和は椅子に腰かけると、自分の鞄をあさって、スポーツドリンクを取り出した。


「丁度良かった。これ、やるよ。そこのスーパーで買って来たんだ。」


 差し出されたスポーツドリンクには、キュウリ味と書かれていた。普段ならば拒否をするところだが、意を決して飲んでみることにする。全部熱のせいだ。キュウリの味と、あの独特の甘みが合わさって、喉を通っていく。あ、意外と美味しい。水分補給の事を考えて作り出された飲み物と、キュウリのほとんどを構成する水分が上手く合わさっているのだろう。これは是非、時和にも味わって欲しい。黙って彼に渡した。


「え、なんだよ。不味かったのか?」

「いいから。」


 いぶかしげな表情を浮かべつつも一口飲むと、表情がぱっとほころんだ。


「嘘だろ。うけを狙って買ってきたのに。なんだよお。」


 膝から崩れ落ち、地面に這いつくばって悔しがった。そこまで悔しかったのか。自室で這いつくばられても迷惑だから、何か違う話題を。


「あ、そうだ。メール、何だったんだ?」

「あ、そうそう、それよ。」


 時和は、机の前のコルクボードにぶら下がっていた血みどろ男爵のキーホルダーを右手に持ち、彼の鞄から取り出したゾンビのキーホルダーを左手に持ち、俺の目の前に掲げた。


「え?なんだよ。」

「がしゃーん。」


 時和は男爵とゾンビの手をつながせて、声を当てた。


「実は僕達、私達、コラボします!」

「え!マジで?」

「うん。マジ。大マジ。どちらの監督も版権元も一緒だし。」

「信じられねえ!」

「そう言うと思って。ほら!」


 彼は、更に鞄からチラシを取り出した。そこには確かに、『血みどろ男爵のゾンビクライシス』と書かれていた。


「血みどろ男爵がゾンビと戦うお話だって。」

「ああ、分かる分かる。」


 日本では今秋公開か。絶対観に行かなければ。


「だからよ。さっさと風邪治して、今までのシリーズ見直そうぜ。」

「そうだな。……ありがとう。」

「いいって。何かあったら連絡してくれよ。飛んでいくからよ。」


 時和は、自分があまり居座ると俺が休まらないからと言って、さっさと帰っていった。俺はまた一人になったが、もう孤独ではなかった。だって、俺の近くには血みどろ男爵と、時和が忘れていったゾンビが見守っているのだから。

 目を閉じると、意識がだんだん遠くなっていく。暗闇の中に落ちていき、ふと目を開けると、再びジンジャーの花畑の中にいた。今度は黒いスーツの男が立っている。中性的で、特徴の無い顔立ちをしている。

「初めまして。」

「あ、どうも。あなたは?」

「私が誰かなんていいじゃないですか。」

 男はハンカチで汗を拭きながら言った。

「いや、病人の夢の中に土足で入り込んでおいて、誰でもいいなんて、よく言えますね。」

「あ、申し訳ありません。靴脱ぎますね。」

「いえ、そういう意味じゃなく。で、御用件は?」

「あ、そうでした。そうでした。あのですね。ゾンビが復活しそうなんですよ。」

 何を言っているんだろう。この男は。

「ゾンビ?」

「そうです。ゾンビ。その時、あなたは窮地に陥ります。」

「どんな予言ですか。」

「まあ、信じなくても結構です。そこでね、これをお貸ししておきます。」

「なんですか?」

 男が差し出したのは、ダイナマイトチェーンソーだった。持つと結構重い。

「これを、俺に?」

 そう聞くと、男は答えないまま消えていく。完全に消えてしまい、近くの水たまりに自分の姿を映すと、そこには血みどろ男爵が映っていた。どういうことか分からずに立ち尽くしていると、どんどん周囲の景色が明るくなっていく。

 目が覚めると、汗でTシャツがベトベトだった。部屋の中が蒸し暑く、窓を開ける。

 部屋の外に見えるアスファルトは、蜃気楼が出来そうなほどに暖められていた。家の前の通りにいる人達は、学生も大人も額に汗して歩いている。みんな大変だなあ。

 俺は部屋の冷房を気持ち高めに設定して涼んでいると、妹がノックもせずに入って来た。


「お兄ちゃん、風邪はもういいの?」

「ああ。大丈夫だよ。ありがとうな。」

「アイス食べたい。」

「は?」

「高いやつ。」


 ああ、なんだろうな。見返りを求められるのは分かりきっていたことなんだが。少しでも無償の奉仕を期待していた部分があったので、少し落ち込む。


「俺、お金ないよ?」

「海に行くお金はあるのに?お土産代ケチったのに?」

「まだ根に持ってんのか。お土産って言っても観光地じゃないから、ヒトデくらいしか売ってなかったんだけど。いるの?ヒトデ。」

「いらない。」


 どうにかして、俺が支払わずにアイスを妹に渡してやれる策はないだろうか。大学生の知能を注ぎ込んで画策する。あ、あった。


「おい、千穂。耳貸せ。」


 二人でリビングに降りていくと、母が身なりを整えていた。


「あれ、お母さん。どこか行くの?」

「あら、千穂ちゃん。今起きたの?」

「うん。」

「あれ、口紅、新しいやつ?」

「そうよ。よく分かったわね。」


 その間に俺は、机の上に無造作に置いてあった買い物メモを手にする。

作戦名、手品。仕組みは簡単だ。マジシャンは右手で派手な動きをしている間に、左手に手品のタネを仕込むという。これを利用する。妹が話かけて気を逸らしている間に、俺が買い物メモにこっそりアイスを追加するという手はずだ。母の死角になるよう背を向けて、メモに向かう。多くの食材が書かれている途中に、母の筆跡をまねして書き込んだ。まあ、母もうっかりなところがあるから、これでいいだろう。妹の方に終わった合図として、ウインクを送る。妹もウインクを返した。


「じゃあ、お母さん、買い物に行ってくるから。」

「うん。行ってらっしゃい。お母さん。」

「行ってらっしゃい。」


 母に見えないところで、妹はにまにまと笑っている。俺もあっけなく作戦が成功して、戸惑った。母は買い物メモをポケットに入れると、玄関の方へ向かっていった。


「お兄ちゃんは何もいらないの?」

「え?何が?」

「何がって、メモに書いてたじゃない。」


 うわ、やばい。ばれてた。何故?妹の方をちらっと見ると、バツが悪そうにたたずんでいる。冷房にあたってひいていた汗が、嫌なところからにじみ出していた。


「千穂ちゃん。」

「はい。」


 背筋をピンと伸ばし、上官と話すかのように全身を緊張させていた。今にも敬礼するかもしれない。


「アイスなら冷凍庫に入っているわよ。お兄ちゃんの看病、頑張ってたからね。」

「ありがたき幸せ。」

「すごいな。何で分かったの?」

「鏡よ。ほら、そこの。」


 母が指さした先には確かに姿見があった。


「なんだよ。母さん。言ってよ。もう。」


 母はひとしきり笑ったあと、俺とプディングを買ってくる約束をして、颯爽と出かけていった。千穂は敬礼して見送ると、嬉々としてアイスを食べ始めた。


 ……それにしても気になることがある。メモに向かったのは俺なのに、どうして妹が欲しがっているものを書いたと分かったんだろう。あまりに視力がよくないと、文字までは見えないはずなのに。聞くのも、考えるのもなんだか怖くなったので、忘れることにした。

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