妹の勉強会(実技)
なにやらリビングが賑やかだと思ったら、最上さんの妹が来ているようだ。出来れば、そっと自室に引きこもっておきたいところだが、喉が渇いて死にそうである。コップの中の水ももうない。仕方ない。台所まで飲み物を取りに行くか。
階段を下りてリビングの前まで行くと、妹達の会話がはっきりと聞こえてきた。
「それでさ。お姉ちゃん達、一泊旅行してきたのにお土産無いんだって。」
「あー。うちの兄ちゃんからも無かった。最低よねー。」
「分かる分かるー。あの子、そういう所で気がきかないからモテないのよ。お母さん悲しいわ。」
母さん……。流石に、女子高生に交じるのは無理があると思う。このまま陰口を叩かれるのもいい気がしないので、入って話を中断させよう。
「あ、結衣ちゃんいらっしゃい。賑やかだね。千穂、何の話をしてたんだ?」
「えー?結衣ちゃんが泳げないって話―。」
この野郎!しかし、追及すると俺が立ち聞きしていたことがばれるので、深入りしないでおこう。
「へー。泳げないんだ。」
「そうなんです。」
冷蔵庫からジンジャーエールを取り出し、コップに注いだ。乾いた喉に炭酸がよく響く。
「実は、夏休み明けに水泳のテストがあるんです。だから、憂鬱だなって。」
「へー。大変だね。」
「兄ちゃん、そんな。他人事みたいに。」
「他人事だもん。はー、ジンジャーエール美味しい。」
「本当、最低よねー。」
このやりとりをじっと聞いていた母は、何かいいことを思いついたようだ。顔にはっきりと書かれていた。
「お兄ちゃん、結衣ちゃんに教えてあげなさいよ。」
「え、俺が?でも俺……。」
「ああ、その点は大丈夫。お父さんが一時期ジムに通っていたときの、競泳用全身タイツがあるから。それ着れば大丈夫よ。」
「あ、そうなんだ。」
「え?お兄さんが教えてくれるんですか?やったー。」
結衣ちゃんの顔がぱっと華やいだ。妹が、彼女を悲しませたらタダじゃおかねえと、アイコンタクトを送ってくる。これで断れなくなってしまった。
「しょうがない。分かった。行こう。」
思い立ったが吉日と、その日のうちにいくことになった。プールに行く準備を終えて、一旦家に水着を取りに行った結衣ちゃんと合流する。時刻は一四時二十五分。一日の内で最も暑い時間だ。じりじりと太陽に焼かれながら、歩いて十五分程度先の市営プールへと向かった。
「そういえば、大学にはプール無いんですか?」
結衣ちゃんが汗を拭きながら聞いてきた。千穂は興味がまるで無さそうだ。妹が興味があるのは、冷たい水に身体を浸すことだけのようだった。
「あるよ。うちの大学には海洋学部があるからね。普通のプールもあるし、屋外にはダイビングの練習をするような深いプールもあるんだよ。」
「そうなんですか。」
「何話してんの。早く中に入ろ、結衣ちゃん。」
千穂が結衣ちゃんの手を取って駆けだす。市営のプールは、そろそろ外の白いペンキを塗り替えたら?と助言をしたくなる程度の陰気さを放っていた。市の施設らしく、派手ではないが、簡素な玄関口に入って入場料を支払う。そこで二人と別れて更衣室に入ると、ツルツルしたコンクリートの床と、微かに塩素っぽい匂い。あと小林が俺を出迎えた。
「えー。凄い偶然。どうしたの、藤咲。」
「最上さんの妹に泳ぎを教えるんだ。」
「一応、普通に泳げるんだ。君。」
「そうだよ。」
「でも、どうすんのさ?お腹のやつ。」
俺は母から借りた、父の水着を見せた。黒い布地に入る黄色いラインが、いかにも速く泳げそうな雰囲気を醸し出していた。
「父さんの。最終兵器。」
「あ、そんなのあるんだ。ていうか、海に持っておいでよ。それ。」
「俺もさっき知ったんだよ。こんなのあるって。でも、海にこれ着て来るやつ、いるのかな?」
「こないだの海では見なかったね。」
俺の着替えも終わり、プールに出ることにした。小林は、ポロシャツの襟を正してスケッチブックを腋に抱えた。
「よし、藤咲君。行こうか。」
「え、小林。え?」
「ああ、これ?許可は取ってあるよ。」
小林は首から下げた、入館証と書かれたストラップを見せつけて来る。
「僕、プールの絵を描こうと思って。今日来たんだ。」
「はー。大変だな。」
「大変だよ。僕、今まで動かないものしか描いて来なかったからさ。沢山の人が動いて、波が無秩序に起こる場所は練習にうってつけだと思って。」
改めてプールへと続く扉を開けると、千穂の罵声が耳を貫いた。
「お兄ちゃん、遅い。女子より着替え遅いってなんなの?」
「ごめんごめん。」
「あ、反省してない謝罪だ。これ。」
小林は眼鏡の鼻に当たる部分の位置を、丁度いい所に当て直して会釈した。
「はじめまして。小林といいます。」
「え?誰?この人、お兄ちゃん。」
本当は俺の服の裾を引っ張りたかったのだろうが、水着のためにわき腹をきゅっと摘ままれた。
「だから、小林って名乗ってるじゃん。俺の大学の友達。絵、描きに来たんだって。」
「え、はあ。はじめまして。」
千穂の挨拶の後、結衣ちゃんは千穂の後ろに隠れるようにして、か細く挨拶を言った。
小林はプールの隅の椅子に陣取って、スケッチブックにガリガリやりだしたので、俺達はチャプチャプやることにした。入念に体操をした後に、ふちに腰かけて身体に水をかける。きちんと温度管理されているようで、やや冷たく感じる程度だった。
「よし、じゃあ、どの位泳げるのか見せてよ。結衣ちゃん。」
「わ、分かりました。」
声を震わせてそう言って、勢いよく壁を蹴った。蹴った勢いが無くなり、バタ足を始める。どうやら、水に顔をつけることはできるようだ。傍で見ている俺の顔に勢いよく水がかかる。いや、それはいい。問題はいつまでもかかり続けることだ。
彼女の問題点。それは、バタ足を勢いよくやる割に前に進まないこと。もう一つは、息継ぎの方法を知らないことだ。見る見るうちにバタ足の勢いが無くなり、泡に包まれて沈んでいった。
「人魚姫かよ!」
そう突っ込んで、彼女を引っぱる。目の焦点が遥か遠くにしか合わなくなっていたので、陸に引き揚げた。
「このように、五メートルが命がけなんです……。」
彼女は息も絶え絶えにそう言った。しかし、原因は明らかになったので、ゆっくりと練習していこう。
まずは、モデルとして、妹にクロールを泳いでもらった。小学生の頃に俺と一緒にスイミングスクールに通っていただけあって、よく泳ぐ。俺は、あまり強くバタ足をしなくても前に進むこと。水面でパッと口を開けると、勝手に空気が入ってくることを伝えた。
結衣ちゃんは持ち前の純粋さを発揮して、俺のアドバイスを疑わずに実践する。コツを掴んで、徐々に前に進むようになった。
それから一時間程立った頃である。調子に乗って速く泳ぎ続ける千穂に、少しだけついていけるようになった時、それは起こった。
俺は時計に気を取られていたので、すぐには気付かなかった。千穂も水を得た魚のように、自分の泳ぎに夢中になっている。
俺がはっと気づくと、プールの真ん中で水泳のものではない、不自然な水柱が立っていた。全身に鳥肌が立つ。
「結衣ちゃん!」
そう叫んで泳いで近づこうとしたその時、俺の頭上を飛び越えて入水する者がいた。小林だった。眼鏡が外れるのも厭わずに、彼は完璧なフォームでクロールを展開し、千穂よりも先に結衣ちゃんに近づく。右手を背中に、左手を膝の下に差し入れ、浮力を利用して抱きかかえた。
「もう大丈夫だよ。妹さん。足がつったのかな?」
抱きかかえられた人魚姫が咳き込む。小林はゆっくりと陸地に向けて歩き始めた。
「災難だったね。水は飲んだ?」
姫は恥ずかしそうに頷く。そして、細い指で少しとジェスチャーをした。彼女は、周囲の目線を一身に集めていることに気付いたのか、顔が真っ赤だ。
「そっか。少しなら大丈夫だね。」
二人が陸地にたどり着いたところで、プールの監視員が飛んできた。
「大丈夫ですか?」
「ええ。どうやら足がつって、少し水を飲んだみたいで。でも、意識ははっきりしています。」
「そうですか。申し訳ありません。救助が出遅れてしまって。彼女、少し顔色が悪いようですね。医務室にご案内しましょう。」
筋肉隆々の監視員が彼女を抱きかかえて医務室へと連れて行こうとすると、結衣ちゃんは濡れた小林の服をがっしり掴んだ。
「分かった。一緒に行くよ。藤咲、眼鏡拾っといてよ。」
そう言って、監視員の椅子に代理のいかつい女性が座った後、三人は医務室へ向かった。俺は半泣きで戸惑う千穂に、着替えて、結衣ちゃんの荷物を持っていくよう伝える。千穂は、か細くも素直に返事をしたあと、結衣ちゃんから預かったロッカーの鍵を握りしめてすぐさま更衣室へ向かう。
とにかく、結衣ちゃんが無事で良かった。眼鏡を水底から救った後に、俺も更衣室で着替えた。
「うちの妹が、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。」
医務室に向かうと、最上さんの声が部屋の中から聞こえた。うちの母も一緒だ。
「大丈夫か、結衣。」
少し休んで元気を取り戻した彼女は、小林の服をしっかり掴んだまま、元気良く首を縦に振った。
「心配かけてもう。」
「最上さん。ごめんなさいね。私が勧めたばっかりに。」
「いえ、おばさん。無事だったのでお気になさらず。」
部屋の中で誰もが謝罪を交わした後、市営プールを出た。相変わらず、結衣ちゃんは小林の服の一部分を掴んでいる。
「あの、結衣ちゃん、離してくれないかな。」
「また、お姫様抱っこしてくださるなら。」
小林は、困った顔を浮かべる。自分の貧弱な腕と相談して、無理だと判断したようだ。
「結衣。小林君を困らせるなよ。」
「はーい。」
時刻はもう夕方だ。藤咲一家と最上さんは、夕日に向かって仲睦まじく歩いていく人魚姫と王子様の後を、微笑みながらついていった。




