心配して損しました
結局、一睡もできずに朝を迎えた。
リオナは石垣に腰かけ、物思いにふけっていた。
アリアーゼは、三日と言った。それは、気の遠くなるような長さに思えた。
そもそも、三日経てば、本当に、帰って来るのだろうか。
自分にできることは、何もない。
――せめて、無事を祈ろう。
そう思って、山の方を向いたその時、それは、見えた。
誰かが、荷馬車を引いて、歩いてくる。朝日に照らされたその姿を見て、リオナは目を見開いた。
「アリアーゼ様だ……!」
思う間もなく、リオナは、駆け出していた。
視界が、じわりと滲んだ。
アリアーゼはいつもの歩調で、こちらへ歩いてくる。変わった様子は、どこにもない。
「アリアーゼ様! アリアーゼ様!」
名前を呼びながら、リオナは、ただ、走った。
そして、その表情が、はっきりと見えるところまで来て――
脱力した。
アリアーゼは、にへにへと、だらしない笑みを浮かべていた。
どこを見ているかわからない目。ああ。妄想している時の、あの顔だ。
「アリアーゼ様!」
リオナは頬をふくらませて呼びかけた。
「あら? リオナ、おはよう。そんな顔して、どうなさったの?」
「もう……もうっ!」
リオナは、ぷいっと、そっぽを向いた。
アリアーゼは、きょとんとした顔で、そんなリオナを見つめるばかりだった。
◇
「あのお方がお戻りだ……!」
その声に、宿場町が、たちまち騒がしくなった。
商人たちが、次々と駆け寄ってくる。あの、指輪を奪われた商人も、その中にいた。
「これを」
アリアーゼが、そっと、指輪を握らせる。
「あ……ああっ……! ありがとうございます……!」
商人は、指輪を両手で握りしめ、地面に泣き崩れた。
周りの商人たちも、荷を取り戻し、あちこちで、涙と歓声が上がっている。
「なんとお礼を申し上げれば……!」
「ふふ。淑女のたしなみですわ」
アリアーゼは、こともなげに、そう言った。
リオナは、少し離れた場所から、その光景を見ていた。
(――ああ。やっぱり、この人は、すごい人なんだ。何十人もの盗賊の根城にたった一人で乗り込んで、帰ってくるなんて。)
見惚れるように、リオナは、その背中を見つめていた。
◇
その夜、宿の湯殿で、リオナは、アリアーゼにそっと寄り添った。
「アリアーゼ様。今日は、わたしが、洗って差し上げます」
「あら」
アリアーゼは、少し驚いた顔をしたが、素直に頷いた。
「では、お願いしようかしら」
リオナは、石鹸を泡立て、その背に、そっと手を這わせた。
傷ひとつない、なめらかな肌だった。
それが、かえって、リオナの胸を締め付けた。
この人は、たった一人で、何十人もの敵の中へ乗り込んだのだ。
もし、もし、傷ついていたら。もし、帰ってこなかったら。
こらえていたものが、堰を切った。
「ぐすん」
リオナは、その背に、そっと、手を回した。
「よかった……本当に、無事で……」
声が、震える。
涙が、頬を伝った。
「あら、あら」
アリアーゼは、驚いたように、目を丸くした。
それから、困ったように、けれど、どこか嬉しそうに、微笑んだ。
「ご心配を、おかけしましたわね」
「……アリアーゼ様の、馬鹿」
「まあ」
「おひとりで。危ないことをなさって……」
リオナは俯いて、肩を震わせている。
アリアーゼは、リオナの頭にそっと手を置いて、静かに言った。
「あんな輩には負けませんわ。だってわたくし、先生から、まだ何も教わっておりませんもの」
リオナが顔を上げると、アリアーゼと目が合った。アリアーゼは、いつものやわらかな笑みを浮かべていた。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
湯気だけが、静かに、二人を包んでいた。
沈黙を破ったのはアリアーゼだった。
「ねえ、リオナ。一つだけいいかしら」
アリアーゼが、真剣な顔で、口を開いた。
「なんでしょうか?」
アリアーゼの視線が下へと向かう。
「いったい何を食べたら、そんなに、大きくなるのかしら?」
「……はい?」
アリアーゼの視線が、まっすぐに、リオナの胸元へ、注がれていた。
「もう! アリアーゼ様の馬鹿! 馬鹿!! ポンコツ!!!」
湯殿に、リオナの叫びが、こだました。
◇
それから、しばらく後。ゼリアス王国、王宮執務室にて。
書類の山に囲まれた執務机で、一人の男性が、面倒くさそうにペンを走らせていた。
そこへ、静かに扉が開く。
「エルクード王子殿下。ご報告がございます」
入ってきたのは、黒髪を一つに結った、若い女官だった。表情は、いつも通り、凪いだ湖面のように動かない。
「おお、サリエナか。どうした」
エルクードは、ペンを止め、顔を上げた。
「グランベル側国境付近に巣くっていた盗賊団が、壊滅した模様です」
サリエナは、抑揚のない声で、淡々と報告を続けた。
「……それは誠か?」
エルクードの眉が、わずかに動く。あの盗賊団は、この国の兵でさえ、長年手を焼いていた相手だった。
「はい。現地で裏付けを取りました。間違いございません」
「誰がやった」
「目撃者の証言では、一人の女性騎士だったと」
エルクードは、椅子の背にもたれ、興味深そうに、サリエナを見つめた。
「ほう? して、その者の名は」
サリエナは、少しだけ、間を置いた。
「アリアーゼ・フォン・ローレンス」
その名を聞いた瞬間、エルクードの動きが、ぴたりと止まった。
「グランベルの最強騎士と同じ名ではないか」
声に、隠しきれない驚きが滲む。
「左様でございます。なんでも、グランベル王太子に婚約を破棄され、国を出たとか」
「なるほど、興味深い」
エルクードは、身を乗り出すようにして、机に肘をついた。
その口元に、にやりと、笑みが浮かんだ。
無事に盗賊事件を乗り越えた二人。
次回、アリアーゼとリオナの新しい暮らしが始まります。
※ぜひ第8話もお楽しみください!




