不安です
ビアウィスキー川は、大河だった。
リオナが生まれ育った町にも川はあった。だがあれは、小川と呼ぶべきものだったらしい。対岸が霞んで見える。水の色は深く、表面は静かなのに、流れの速さだけは音で分かった。
その東側には、広々とした平野がどこまでも続いている。
アリアーゼは平野を見渡しながら頷いた。
「これだけの土地があるのですもの。すべて農地にできれば、かなりの収穫が見込めますわね」
「でも、雨季になると水があふれてしまうんですよね」
リオナはそう言って、改めて平野を見渡した。
ところどころに畑はあるものの、手つかずの土地のほうがずっと多い。これだけ広い土地が、水のせいで使えずにいる。
「……もったいないですね」
「本当にそうですわね」
しばらくして二人は、目的の場所へたどり着いた。
ビアウィスキー川が頻繁に氾濫を起こす三箇所のうちの、一番上流にあたる場所である。
「……あ」
リオナは足を止めた。
川が、大きく曲がっていた。
西岸の岩山。その麓から、巨大な岩盤が川へ向かって突き出している。灰色の岩肌が、流れを塞ぐように東へ張り出していた。
川はその岩盤を避けるように、大きく東へ湾曲している。
しかも、その一帯だけ、川幅が明らかに狭い。
「これですわ」
アリアーゼが、岩盤を見上げた。
「上流から来た水が、ここで詰まりますの。ただでさえ細いところへ、無理やり押し込まれるのですわ。ボトルネックという奴ですわね。そして、押し出された先が」
アリアーゼの指が、東の平野を指した。
「……なるほど。だから、雨季になると、ここから水があふれるんですね」
リオナは、岩盤と川と平野を順に見比べた。
それから、少し下流へ視線を移した。川の西岸の、岩山の麓にあたる場所だ。
そこは、石ころだらけの荒れ地だった。草もまばらで、家の一軒も見当たらない。
「あちらには、何もありませんね」
「ええ。何もございませんの」
アリアーゼは、にっこりと笑った。
「ですから、水にはあちらへ行っていただきましょう」
◇
拠点となる村は、そこから半刻ほど下ったところにあった。
案内役の村人に従って村に入ると、リオナは思わず足を止めた。
家が、高い。
どの家も、太い柱の上に床が組まれている。地面から床まで、大人の胸の高さほどもあった。玄関にはどこも階段がついていて、床下には薪や農具がぎっしりと押し込まれている。
「……ずいぶん高いですね」
「毎年、水が来るからな。今年も、もうしばらくで雨季に入る。その前に薪を上げないとならないんだ」
案内の村人は当たり前のような口調で言った。
そのまま案内に従って、村の広場まで来た。そこには人が集まっていた。
風の魔術師が三十人。王都の宮廷魔術師らしい身なりの者もいれば、地方の町から来たらしい者もいる。まだ十代に見える見習いも混じっていた。
その前に、エルクードが立っていた。
「やあ。二人とも、ご苦労だったね」
「殿下。わざわざお出迎えいただいて、光栄ですわ」
「わたしが集めた者たちだからな。引き合わせるくらいはする」
エルクードが振り返ると、魔術師たちの視線がいっせいにこちらへ向いた。
しかし、その視線に好意的なものは、ひとつもなかった。
「こちらがアリアーゼ殿だ。今回の差配をお願いしている」
「よろしくお願いいたしますわ。みなさま、しっかり稼いでくださいね」
アリアーゼは髪をかきあげながら、そう言った。
魔術師の一人、一番年配で豪華なローブをまとった男が一歩前に出た。
「……宮廷魔術師のエルディオ・リンドベリと申す。で、我々は何をすればいいのですかな?」
エルディオは、腕を組んだまま質問を投げかけてきた。
アリアーゼは地図を広げると、一箇所を指さした。
「皆様には、この岩盤を砕いていただきますの」
皆、地図を凝視したまま沈黙した。
それから、失笑が漏れた。
「不可能ですな」
エルディオが、鼻を鳴らした。
「風の魔術は物を動かすためのものです。岩を砕く力などありませんよ」
「あら」
「失礼ながら、魔術をご存じない方の発想です。石工が鑿を入れても何年かかるか分からん岩盤を、風の魔術で砕くなど」
周りから、同意の声が上がる。
エルディオは言葉を続けた。
「あなたはお貴族様だと伺っております。その方に対して失礼とは存じますが、なぜ我々が、専門家でもない方の思いつきに付き合わされねばならんのでしょうか?」
リオナは、思わず前に出そうになった。その肩に、ぽん、と手が置かれた。
エルクードだった。
「諸君」
エルクードが、静かに言った。
「この工事の費用は、国庫からは一枚も出ていない。すべてアリアーゼ殿の私財だ。つまり、諸君に払われる報酬も、このお方の懐から出る」
ざわめきが、止まった。
「このお方が、金主だ」
エルクードは、穏やかな笑みを崩さなかった。
「従わないのであれば、報酬はない。それだけのことだよ」
誰も、何も言わなかった。
エルディオが、苦々しげに口を開いた。
「……承知しました。報酬は悪くないですからな。その分は従うことといたしましょう」
「うむ」
「ですが殿下。不可能な事を可能にせよと言われても困りますぞ」
「それは明日、この目で確かめようではないか」
◇
翌朝、現場に全員が集まった。
三十人の魔術師たちを見回しながら、アリアーゼが口を開いた。
「では、まずわたくしどもが手本をお見せいたしますわ。リオナ」
「お任せを」
リオナは前に出た。
三十人分の視線が、いっせいに向く。値踏みするような目だった。どこの誰とも知れない小娘が、何を見せるつもりなのか、と言わんばかりだ。
(――大丈夫。これは、わたしの仕事。いつも通りやるだけだ)
リオナは、川べりに転がる岩の中から、一番大きなものを選んだ。人の背丈ほどもある岩塊だった。
「大気の風よ、集え! あの岩を浮かし、放て!」
風が渦を巻いた。
岩が、ずるりと地面を離れる。土くれを落としながら、ゆっくりと宙に浮いた。
ざわめきが起きた。全員が風の魔術師である。あれだけの質量を浮かせるのが、容易ではないことは全員が知っていた。
「たあっ!」
風向きが変わり、岩が加速した。
どごおおおん。
腹の底を叩くような音が、周辺に響いた。
岩肌が白く爆ぜ、破片が飛び散る。ぶつけた岩も、真っ二つに割れて落ちた。岩盤には、人ひとり分ほどのくぼみができている。
誰も、何も言わなかった。
「お分かりになりまして?」
アリアーゼが、静かに言った。
「魔術で岩を砕くのではありませんの。岩に、岩をぶつけるのですわ。そして砕けた岩は、次にぶつけるための道具になりますでしょう?」
エルディオが、ゆっくりと川辺に近寄った。岩盤にできたくぼみを遠目に確かめる。そのまま、しばらく動かなかった。
「……なるほど。風の魔術そのもので削るのではない。あくまでも物理的に削ると」
「ええ」
「そして、削れば削るほど、物理的な道具が増えて行くと」
エルディオは振り返った。まだ、十分に納得した顔ではなかった。
「少しだけ考えを改めねばならんようですな。しかし」
エルディオはチラリとリオナへ視線を向けた。
「同じことをできる者がこの中に何人いるか……。まあ、まずは始めてみましょうぞ」
◇
初日は、散々だった。
浮かせられない者がいた。浮かせても、途中で落とす者がいた。放っても狙いが逸れて、岩は川に落ちた。当たっても跳ね返されるだけで、傷ひとつつかない。
三十人がてんでばらばらに岩を投げ、そのほとんどが川へ沈んだ。
日が傾くころ、岩盤にできたくぼみは、朝リオナが作った一つきりだった。
「……アリアーゼ殿」
エルクードが、隣に立った。
「率直に言う。不安だ」
「あら」
「一ヶ月と言ったな。この調子で、本当に間に合うのか」
アリアーゼは、岩盤を眺めたまま答えた。
「まだ始まったばかりですのよ?」
「……そうだが」
「殿下は、明日もこちらに?」
「いや」
エルクードは、渋い顔をした。
「王都へ戻らねばならん。議会がある。……こういうときに限って、王太子というのは不便だな」
「あら。お忙しいのはよいことですわ」
「一週間後に、また来る」
それだけ言い残して、エルクードは馬車に乗った。
遠くなる馬車を見送りながら、リオナは小さくため息をついた。
「……大丈夫でしょうか」
「なにがですの?」
「その、皆さん、あまり乗り気ではないみたいで」
「そうかしら」
アリアーゼは、首をかしげた。
「あの方々、今日一日で、ずいぶん岩を投げてくださいましたわよ。少なくとも、途中で脱落された方はいらっしゃらなかったわ」
「……それは、そうですけど」
「それで十分ですわ」
三十人の魔術師、大河を前にして岩を投げる。そして、ほとんど川に沈みました。
不安なエルクード殿下と、まったく動じないアリアーゼ様。
次回、工事の行方やいかに。




