わたくし失敗いたしません
アリアーゼが棚から古い地図を取り出した。
この家に来たときから、あの棚にあったものだ。ゼリアス王国の全図。アリアーゼが時折、何をするでもなく眺めているのを、リオナは見たことがあった。
アリアーゼはその地図を、卓の上にそっと広げた。
「ここが、一番上流の氾濫地点ですわね」
アリアーゼの指が、川の曲がり角の一箇所に置かれた。
「そうだ。毎年、あの一帯が浸かる」
アリアーゼは一つ頷くと、別な場所に指をすべらせた。
「次に、ここなのですけれど」
少し下流の一箇所を指した。川を挟んで、農地とは反対側の場所だった。
「ここ、何もございませんわね」
「……うむ。そこは荒れ地だ。人が住むにも、農地にも適していない」
「それは結構ですわね」
アリアーゼは、にこりと笑った。
「では、ここへ水を捨てましょう」
「……なに?」
「堤は築きませんわ。川の流れそのものを、変えようと思いますの」
エルクードが、身を乗り出した。サリエナは表情を変えずに、素早い手つきで文字を書き留めている。
リオナも、いつのまにか卓のそばに立っていた。
「川の流れを遮るように張り出しているこの岩盤。これを思い切って削りましょう。そうすれば、川幅が広がり、農地側への水の勢いも削がれますわ。この場所での氾濫は解決できるはずです」
アリアーゼは一度お茶を飲んだ。
「その代わり、下流に向かう水量は増えますわね。その水をこの荒地に導こうと思いますの」
アリアーゼは、地図上の二箇所を交互に指さした。
「……築くのではなく、岩盤を壊すのか。そして、わざと溢れさせて逃がす……」
「ええ。この荒れ地を遊水地として利用できれば、その分だけ、下へ流れる水は減りますでしょう?」
アリアーゼの指が、さらに下流の二つの点を順になぞった。
「下流の二か所も、水量が減れば、あふれる量が減りますわ。三つとも押さえる必要などございませんの。一番上で、一度水を逃がしてやればよろしいのです」
エルクードは、地図を見つめたまま動かなかった。
「築くのではなく……」
「壊すのですわ」
アリアーゼが頷く。
すぐにエルクードが言葉を続ける。
「……そして、水を止めるのではなく」
「逃がすのですわ」
アリアーゼは、なんでもないことのように言った。
「築くより壊すほうが、シンプルでずっと楽にできますもの」
エルクードは、しばらく口を開かなかった。
サリエナが無表情で手帳にペンを走らせている。その勢いは、一言も書き漏らすまいとしているようだった。
「……だが、岩盤を削るというのも、容易ではないぞ」
ようやく、エルクードが口を開いた。
「石工を何十人集めても、何年かかるか分からん」
「石工は要りませんわ。風の魔術師をお集めなさいな」
「魔術師? 風の?」
エルクードは怪訝な表情を浮かべた。
「うふふ。岩盤は綺麗に削り取る必要はございませんのよ。百聞は一見にしかずですわ。リオナ、手伝ってくださる?」
アリアーゼはリオナへ振り返ると、にこりと微笑んだ。
◇
四人は村の外れの岩場へとやってきた。
切り立った岩肌がむき出しになった場所だ。その下には、転がり落ちた岩が無数に散らばっていた。
「リオナ。ゴーレムさんを倒した時のことを憶えてらっしゃる? あの時と同じ様にお願いしますわね」
「ああ、関節を壊したあの手法ですね! お任せを!」
リオナは、勢いよく袖をまくった。
先ほどまでは国政の話だった。自分には口を挟める内容ではなかった。でも、これは、自分の得意分野だ。張り切らずにはいられない。
「あの大きいものを、お願いできるかしら」
アリアーゼが指したのは、リオナの背丈ほどもある岩だった。
「あれくらいなら、余裕です」
リオナは息を吸い、両手を岩へ向けた。
「大気の風よ、集え! あの岩を浮かし、放て!」
風が渦を巻き、地面に半ば埋もれていた岩が、ずるり、と持ち上がる。土くれを落としながら、ゆっくりと宙に浮いた。
「たあっ!」
風の向きが変わり、浮いていた岩が、ぐん、と加速した。
どごん、と腹に響く音がした。
岩肌が白く砕け、破片が飛び散る。ぶつけた岩のほうも、真ん中から割れて地面に落ちた。崖には、人の背丈ほどのくぼみができていた。
「……ほう」
エルクードが、ゆっくりと崖へ歩み寄った。くぼみに手を当て、砕けた縁を指でなぞる。
「一度で、こんなにもか」
「お分かりになりまして?」
アリアーゼが、エルクードの隣に立った。
「岩盤は、綺麗に削り取る必要などございませんの。とにかく砕いてしまえばよろしいのですわ。そして崩れた岩は、次に岩盤を削るための道具になりますでしょう?」
エルクードは、しばらく崖のくぼみを見つめていたが、アリアーゼに振り返ると口を開いた。
「……魔術師を、何人集めればいいだろうか」
「そうですわね。手練れを十人ほど。あとは若い方でも構いませんわ。三十人もいれば」
「工期は」
「わたくしの見立てでは、一ヶ月もあれば十分ですわね」
エルクードが、目を見開いた。
「一ヶ月だと?」
「あら、長すぎたかしら」
「逆だよ」
エルクードは、額を押さえた。
「堤を築けば、何年かかると思っている。それを、一ヶ月」
「ですから、築かないのですわ」
アリアーゼは、なんでもないことのように言った。
エルクードは、しばらく黙って崖を見つめていた。
やがて、低く息を吐く。
「……正直に言おう。まだうまくいくという確証がもてない」
「うふふ。そのお気持ちわかりますわ」
「理屈は分かった。この目で見もした。それでもだ」
エルクードは、首を横に振った。
「先々代から続く懸案なのだぞ。それを、岩を投げて荒れ地に水を捨てれば済むなどと」
「ええ、そうでしょうね」
「加えて、国の事業だ。わたしの一存では動かせん。議会にかけ、大臣を説き、学者に諮る。そこで反対されれば、それまでだ」
エルクードの声に、隠しきれない苛立ちが混じった。
「予算がつくかどうか、わからん」
「まあ」
アリアーゼは、呆れた表情を見せた。
「ですから、あのお金をお使いなさいと申し上げているでしょう?」
アリアーゼが、サリエナの抱えた箱を指さした。
「……これを?」
「もともと、わたくしに差し上げるはずだったお金ですもの。わたくしがどう使おうと、どなたも文句をおっしゃらないでしょう?」
エルクードが、口を開いたまま固まった。
「国庫から一枚も出ませんのよ。議会も、大臣も、学者も、関係ございませんわ。うまくいかなければ、わたくしが穴を掘って遊んだだけのこと」
「…………」
「うふふ。それなら、どなたも困りませんでしょう?」
エルクードは思案を巡らせるように目をとじていたが、ふいに笑い出した。
「ふふふ……確かにそうだな。どこからも文句の出ようがない。実にすばらしい案だ。だが……」
エルクードは一度言葉を切ると、眉を寄せた。
「万が一何かあった場合、あなたを守れないがそれでもよろしいか?」
その瞬間、リオナの背筋が、すっと冷えた。
――失敗したときの話だ。
国が命じたのなら、失敗の責めは王家が負う。アリアーゼが勝手にやったのなら、負うのはアリアーゼひとりだ。その時にアリアーゼを守る術がない。
この方は、そういうことを言っている。
リオナは、思わず口を開きかけた。
「ええ、かまいませんわ」
だが、その前にアリアーゼが答えていた。あっさりと。考える様子など、微塵もなかった。
「そのほうが、殿下も動きやすいでしょう?」
「……わかった」
エルクードは、深く頷いた。
「代わりに、成功したときも功績を国が盗んだりはしない。そのときはあなたの功績として記録する。それだけは譲らん」
「あら。そんなもの、要りませんのに」
「わたしが要るのだよ」
◇
魔術師の手配はエルクードが請け負うこととなり、日時の取り決めを済ませるとエルクードとサリエナは帰路についた。馬車が坂を下りていく。
それを見送りながら、リオナはそっと隣を見上げた。アリアーゼは、いつもと同じ顔をしていた。
「アリアーゼ様」
「なあに?」
「あの……失敗したら、アリアーゼ様のせいになるんですよね」
「そうですわね」
「それは、その」
言葉が続かなかった。
「リオナ。何を心配していらっしゃるの?」
アリアーゼは、なんでもないことのように言った。
「わたくし、失敗いたしませんわ」
そして、ふと思い出したように手を打つ。
「そうですわ、リオナ。しばらく家を空けることになりますわね。留守番はアッチムに任せましょう。二人分のお着替えを用意しなければ」
「え。わたしもですか?」
「あら。リオナはわたくしのパートナーでしょう? それに、皆のお手本になってもらわないと困りますわ」
「……あ」
リオナは、自分の両手を見下ろした。
さっき浮かせた岩の重さが、まだ手のひらに残っている気がした。
「一ヶ月、よろしくお願いしますわね。リオナ先生」
アリアーゼが、にっこりと笑った。
「……その先生は、お料理のときだけにしてください」
リオナは顔を逸らしたが、口の端が上がるのを止められなかった。
アリアーゼ流治水術。築かず、壊し、水は逃がす。しかも予算は自腹でございます。
そして失敗したときの責任も自腹。このお方、ぶれませんね。
次回、アリアーゼの治水術の効果はいかほど?




